点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

自立再考

幼少期に「自立しろ」と言われすぎると、きっとうつ病になる。僕がうつになったひとつの原因は、自立という言葉にとらわれ、人に頼ることが下手だったからだと考えている。

自立とは、「自力で誰の支援も受けずに物事を遂行していること、状態」を指す。脳がバグるまで僕の頭が回らなかったのが悪いのだけれど、現実世界でこれをそのまま実行することはほぼ不可能だ。

それに気が付かず、誰かに頼るということは恥であるという先入観が出来上がったので、物事が深刻化するまで、誰にも相談ができないという性格になった。

これは親からの影響もあるだろう。「18歳になったら家を出ていけ。その後の金銭援助は一切しない(本当はそんなことなかった)」「自立しろ」と言われ続けていた。

だがこれはあくまでも原因の一つであり、今となっては、単純に自分の思考能力の欠如のほうが大きいと思われる。頭が固かったのだ。だから、今更親を糾弾するつもりは無い。

両親は感謝しきれないほどのことをしてくれたし、精神的にも経済的にも、猛烈に助けてくれた。親がいなければ、今ごろは自殺していたかもしれない。

では何故この記事を書いているかと言うと、自分と同じような状態(「自立しなければならない」と強烈に思い込んでいる)の人間が抱えるストレスを軽減できればいいなと思っているからだ。

結論から先に言うと、本当の自立とは、「自分の抱える問題・課題に合わせて、適切な相談先を見つける能力を持つ」ことである。僕以外にも似たようなことを言っている人が居る。「自立 頼る」で検索してほしい。

この本など。安冨歩の現在の態度やパフォーマンスには同意できない部分がかなり多いが、この頃の著作は結構好き。

生きる技法

生きる技法

  • 作者:安冨 歩
  • 発売日: 2011/12/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

なぜ自立を促すことをやめてほしいか。あるいは、自立という言葉に囚われ過ぎない方が良いかについて書く。

 

まず、自立しなければならないと思いこむと、人に頼ることそのものが、一緒くたにネガティブなことになる。頼みごとの内容や種類とかに、ほぼ意識が向かなくなる。

他人の時間を自分のために使うということについて、申し訳無さで胸がいっぱいになるし、同時に、自分ができないことに意識が集まる。人から言われるまでもなく、「こんなこともできないのか。情けない。だらしない」と自責する。

「頼り下手」は、そのストレスから逃れるために、人に頼るということを避ける。なので、経験値が得られにくく、大人になったときには「極端に人に甘える」か、「極端に自力でなんとかしようとする」という二択をとりがちだ。

人に頼ることが苦手なので、①「私とこの人はどういう関係性だったのか」、②「どこまでが許容範囲なのか」という当たり前の思考をすることが難しい。

 

まず①。頼りべたは、近しい人への相談はもちろん、「無料相談」を標榜する企業のサービスや、金を払って誰かに相談するということが苦手だ。

職業として相談を受ける人間には、金銭(が発生する可能性)という明確な利益がある。つまり頼る側も頼られる側に対して、何かしらを提供できる。そのため、心置きなく相談してよいはずだ。

よほど職業的良心を欠いた従業員、もしくは企業に遭遇しない限り、一定以上のクオリティを持つ解決策が提示されるだろうから、周囲の素人に頼るよりも、課題解決までの時間が短くなる可能性だってある。

僕はこの考え方のせいで、精神科医に行こうという判断が遅れたと考えている。一度精神科医にかかったら自立するのが大変ではなかろうか、という思考が働いた。

もうこの時すでに、経済的にも精神的にも身体的にも、自立なんてできる状態ではなかったのに、まだ自立という教義に縋っていた。頼ることが恥だとか、申し訳ないと思う ことは、自分の問題をさらに肥大化させ、「本当に頼らなければならない」という時分には、ガチで申し訳が立たないほどの問題を、他人に背負わせることになる。

思考の癖が出来上がっている人は気が付きにくいかもしれないが、今一度、日常の中で「頼る」ことに申し訳無さを感じ過ぎていないかを確認してほしい。

 

次に、②。頼るのが下手くそなので、「どこまでが許容範囲なのか」ということまで頭が回らない。頼る側ができることへの想像力が足りないのだ。関係性にも少し関わってくる。

例えば、「友人への突然の高額な借金の依頼」などは、全く頼られる側への配慮が無い。額にも寄るが、相談すべきはまず親兄弟、次に銀行などの金融機関だ。借金の肩代わりの願い出であった場合は、友人や親兄弟などに相談せず、弁護士や、各自治体にある自立支援センターなどのプロに頼るべきだ。

頼りべたは、お門違いの依頼をする。お願いしてきたヤツが、自分のばかり考えて、こちらのことを一切考えずに要望を伝えてきたらどう思うだろうか、というところまで、頭がまわらない。また、頭では分かっていても、経験値が無いので、肌感覚では分からない。時間が必要だ。

 

「関係性」と「相談する相手の許容範囲」を掴む能力が無いと、「頼る」にも様々な種類、度合いがあるということを失念する。何か人に物を頼むことを、一緒くたにして「ダメだ」と判定してしまう。

さらに自己評価が低い場合は、「自分はできない」という思考回路に慣れているので、自力でどうこうするというモチベーションも湧きにくい。自分ではどうにもできず、人にも頼らないという、自滅の道を突き進むことになる。

当たり前だが、もともと人間は、1人で何でもできる存在ではない。「自立」を押し付けることで、日常の意識から消してしまうという副作用がある。本当は、自分が抱えている課題を解決することを歓迎している、仕事にしている人が存在しているのに、そこを見えなくさせてしまう。

もし自分の子どもに自立心を育ませたいと思ったのなら、むしろ逆に、「頼り上手になりなさい」と言ったほうがいいと考えている。

ここでの「頼り上手」というのは、「何でも人にお願いすると叶えてもらうことができる人」、という意味ではなく、「自分の抱える問題・課題に合わせて、適切な相談先を見つける能力を持っている人」という意味だ。

自分の足だけで立つのではなく、多くの杖を持ち、道のりの形に合わせて使っていく。

自立というのは、そういうことなんじゃないかな。