点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

自責の念'を捨てるには

タイトル通り、自責の念'(ダッシュ)を捨てるための第1歩として、以下の文章を残す。

 

実は、精神科の主治医に、希死念慮について伝えることができていなかった。

なぜかというと、事態を重く受け止められて、より病人のように扱われることに対する恐怖感があったからだ。僕は堕落しようと思えば、どこまでも堕落できると思っていた。復帰能力のない人間だと思っていた。万が一入院なんかしたら、そこから脱出することが不可能なのではないかと、本気で思っていた。

先日、そのことを親に、漏らすように伝えたところ、早急に診察をしたほうが良いという判断をされ、今日また主治医の厄介になった。両親も一緒だった。

団地の最上階から下を覗いたり、駅のホームでフラフラしているところを止められたりということが、3月~7月に起きており、親としては入院も視野に入れたいということであった。父は長年救急隊員であり、つまりそういう場面、自殺の現場を見てきている。多くを語らないが、よほど凄惨な状況であったことは想像に難くない。今日の受診日まで、おそらく気が気じゃなかっただろう。

気苦労をかけてしまって申し訳ない。

しかし、この「申し訳ない」という気持ちを持ちやすい僕の性格は、変えていったほうが良かろうということを、やんわりと、遠回しに、言葉選びを尽くされて医者から言われた。

そのことについては、全然落ち込んでいないし、むしろ「やっぱそうか」と納得した。

 

自殺を思いとどまる術を獲得していることや、努めてそれを振り払おうという理性が残されているという理由で、入院には至らなかった。しかし、入院しない代わりに、以下のことを約束された。

  • 病気であることを自覚すること。
  • 病気であることを申し訳ないと思わないこと。
  • 無理をしないこと。うつは心の骨折であり、いきなりダンベルを持ち上げようとしていることが原因で、治りが遅くなることがある。
  • 以上のようなネガティブ思考が出てくるのは病気のせいであり仕方ない。しかし、それを放置したりしないこと。
  • 小遣いを拒否するのではなく、貰って遊ぶこと。遊ぶ中で感じる心の動き次第で、自分の脳機能がどの程度回復したのかを推定できる。

 

帰宅途中の車内で、この約束を守る上で一番必要なことは何かを考えていた。これらの項目を達成する上で、障害となる性格的、内面的な最も大きな障害はなにか。

 

そうしてたどり着いたのが、「自責の念'(ダッシュ)」という僕の思考パターンだ。

これは、「自責の念」と似て非なるものだ。

「自責の念」は、後悔して、自分を責める態度である。

「自責の念'」は、妄想で、自分を責める態度である。

後悔とは、行動の後に、その行動に対して悔やむことだ。悔やむ気持ちというのは、必ず行動の後にやってくる。役に立たないものとされることも多いが、それをバネにして、自分の行動や思考をアップデートする材料につかえることもあるから、完全に捨て去ってしまうのは問題だ。

これを踏まえた上で、「自責の念」の流れを考えてみると、「行動」→「自分が望まない結果」→「悔しい」→「自分はなんて愚かなことを」というのが「自責の念」の一般的なプロセスだろう。

これを振り払うにはどうするか。

後悔先に立たず、やってしまったことは仕方がないから、自分が納得行かない部分について思考し、今後の人生に活かそうと前向きに捉えるか、綺麗サッパリ忘れることだ。それができたら苦労しないし、他にも対策はいろいろあるのだろう。ただ、多くの心理テクニックを自分なりに鳥瞰してみると、最終的に以上の2つどちらかに思考を近づけるかということになるものが多い気がする。

もちろん、出来事の大小によって、振り払えるか否かは変わってくるだろうけれど。

それに対して、「自責の念'」の場合、「後悔」というプロセスを経ず、ひたすらに自分を責めるという思考パターンだ。自分を責めるきっかけになるものは、何でも良い。

家族の顔色が優れない、予定をしっかりと遂行できるか不安だ、部屋が汚い、電気を使いすぎた、1日殆どなにもできなかった、ウンコが出ない、天気が悪い、花が枯れた、電車が遅れた、友人が遅刻をした……自分の行動かどうか、行動の結果がどうか、そんなものは関係が無い。

「自責の念'」の流れは、「思考材料」→「自分はなんて愚かなことを」である。

つまり、なんでも自分のせいかもしれないと考えてしまう。これが「自責の念'」だ。

 

同僚が、上司に怒られているとしよう。原因は何かしらのミスである。それは僕が、同僚が上司に怒られることによって、僕の認識に入ってきた情報だ。つまり、僕がまったく関与しない、あるいはできなかった問題だ。しかし、もしかしたら僕は、その同僚になにかしてあげられたのではないか、協力することでミスを防げたのではないか、自分も同罪ではないか、ということを思ってしまう。

これが「自責の念'」だ。

最初から「なんでも自分のせいかもしれないと考えてしまうこと」と言え。

何人か思っただろう。ただ僕は、「自責の念」は人間にとってある程度必要であると考える。成長のきっかけとして使えれば、という条件付きだけどね。だから、「自責の念'」との違いを明確にして、これと向き合うことをしたかった。

「自責の念'」は、自分の行動や思考を抑制する。僕はこの考えを、いつの頃だかに身に着け、本日までかなりの頻度で採用し続けた。なぜこのような考えを採用しやすくなってしまったのか、ということについては、この記事では特に語らないことにする。問題は、これをどのように振り払うかである。

 

ネガティブな思考に限らず、暴走する思考に有効なのは、「何故」だ。

「何故」は、ネガティブでもポジティブでもない。何故の先が、どちらかに触れることはあるかもしれない。しかし、現状は思考材料があれば、ネガティブ妄想へと突き進む。少しでもいいから、中立、あるいはポジティブにする可能性を増やすことが、「自責の念'」を振り払うステップ1だろう。

もし、僕と同じような悩みを抱えている人がいたら、「なんだそんなことか」と思わずに、一緒にやっていこうじゃないか。僕らは自分を責めすぎた。少しは、「なんで私はこんなに自分を責めているのか」「どうして自分を責めたくて仕方がないのか」「今のこの自責の念は、私が感じるにふさわしいものか」ということを考えてもバチは当たらないと思わないかい。

ともかく、医者と両親との約束を意識しながら、「自責の念'」を少しずつ消していくことを心がけつつ生き延びるようにする。

非常に大きな収穫だ。今日は眠れる気がする。気がするだけだけどね。