点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

ニーチェの永劫回帰

 

 

『世界哲学史』を読み進めていくうちにニーチェを扱う部分に出くわしたとき、永劫回帰の解説があった。これが分かりやすいと言うか、僕のような凡人にも、その理屈について初めて腑に落ちて理解できた気がした。

なぜ今まで理解できなかったのかというと、まあそれはニーチェに挑戦しては挫折し、嫌気が差して以来、まともに読もう!ということにならなかったことが一番の原因なんだけど、ネットで仕入れられる知識だけで、よく理解もせず、とりあえず良しとしてしまったことも大きな要因だ。

かなりの頻度でお世話になっているコトバンクで「永劫回帰」を検索すると、こんなことが書いてある。

kotobank.jp

ニーチェの根本思想。人の生は宇宙の円環運動と同じように永遠に繰り返すと説き、生の絶対的肯定と彼岸的なものの全面否定を、著書「ツァラトゥストラはかく語りき」で主張。永遠回帰。 (デジタル大辞泉)

また、次のようなことも出てくる。

ニーチェはヨーロッパが依拠してきたいっさいのものを――主体や意識や理性という概念も,科学や宗教や民主主義も――生の実相から離れた虚偽であると看破した。これらの背後にあるプラトン主義やキリスト教も実はニヒリズムの発現でしかないとする彼にとって,唯一の実在は,生成の全体としての自然であり,生の唯一の原理は〈力への意志〉となる。近代的な理性の歴史とその進歩信仰は単なる幕間劇としてその意義を失い,存在の全体の根本性格は無限の時間の中での有限な〈力への意志〉の戯れ,つまり永劫回帰であると彼は言う。 (世界大百科事典 第2版)

とりあえずここから読めるのは、

  1. 人生は永遠に繰り返すものであるということ
  2. 現世(自分が今生きているこの世)の絶対的な肯定
  3. あの世(キリスト教をはじめとする宗教などの神秘的なものとか、プラトン主義などの形而上学とかも含めて)の全面否定
  4. 唯一の実存(現実にあるもの)の原理は、<力への意志>であること

である。凡人の僕には理解が追いつかない。何を考えていたのか分からない。

ここで『世界哲学史7巻』の出番だ。

まずニーチェがどういうモチベーションで哲学していたのかということを知ることができる。ニーチェショーペンハウアーというドイツの哲学者を批判したかった。

じゃあショーペンハウアーは何を言っていた人かというと、乱暴に言えば「この世は苦しみに満ちているんだから、生きている意味なんて無い。唯一の救済措置とは、意思の否定だ。この世のものを何も欲さないこと以外に、救いは無い」的なことを言った人だ。めっちゃ悲観的。

ということは、ニーチェは「いや、それでも生きる価値はあるぜ」と言いたかった。

ニーチェショーペンハウアーに抗し、「この世は生きるに値するのか」というあの問いに対し、肯定の答えを出そうとしている。以後、ニーチェは生涯その問いと格闘し、「生の肯定」を自らの哲学的プロジェクトの中心とし続けたのである。 (世界哲学史7 P.87)

仔細な解説は本書に譲るが、本書によると、ニーチェはそもそもショーペンハウアーのように救済を求めなかった。救いを求めること自体間違っていて、それを絶えず克服することで、人類の進歩が成り立ってきた。世界は苦痛に満ちているからこそ生きるに値するのだ、ということを言いたかったのだと言う。

では生を肯定するとはどういうことか。ニーチェは、「およそ到達されうる限りの肯定の定式」を考案した。それが「永劫回帰」だ。

 これは一つの思考実験である。ニーチェが語っているのは、生を肯定するのであれば、すべてを肯定できなければならない、ということである。人生の終わりに際して、「これが人生というものであったか? さあ! もう一度!」(『ツァラトゥストラはこう言った』第三部「幻影と謎」第一節)と言えなければならないのだ。 (世界哲学史7 P.93)

そしてこれは個人の人生だけの話ではない。ニーチェの思考実験は、世界全体が繰り返されるというものであった。

アウシュヴィッツであろうとヒロシマであろうと3・11であろうと──無限に繰り返されるのだ。そんな世界耐えられるだろうか。いや、「耐える」のではなくて、そのように世界全体が何度も繰り返してほしいと、おのずと祈ってしまうことこそが真の「生の肯定」なのである。(同上 P.93)

そんなん無理じゃい!!

そもそも本書でも触れているが、ニーチェはその境地に達しているのか怪しい。揚げ足取りかもしれないが、晩年ニーチェは神経衰弱のさなか、55歳のとき肺炎でこの世を去る。彼に対して、「全く同じ人生を歩め、何度も何度も、永遠に」と面と向かって言える自信は無い。理屈はわかるが、こんなことを言い出す時点で、僕はニーチェの哲学は強すぎて引いてしまっていると思われる。

何はともあれ、こうしたことでニーチェは生きることを肯定し続けようとしたことだけは理解できた。ショーペンハウアーとの関係性については、本書ではより詳しく、しかし簡潔に解説がされているので、そちらを参照ください。

なお、ニーチェが言う実存の根本である<力への意思>については、本書読前の永劫回帰と同じ状態で、噛み砕けていない。なのでここでは扱えない。またどこかで。

お前が今生きておりこれまで生きてきたこの人生を、おまえはもう一度、そして無数回、生きなければならない。そこには新しいことは何もなく、あらゆる苦痛もあらゆる悦びも、あらゆる思いもため息も、お前の人生の言い表せないほど些細なことも大きなことも全て、回帰するだろう。しかも何もかもまったく同じ順序に従って。(フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』第341節)