点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

『空気の検閲 大日本帝国の表現規制』/辻田真佐憲

空気の検閲 大日本帝国の表現規制 (光文社新書)

空気の検閲 大日本帝国の表現規制 (光文社新書)

 

 超オススメ。もっと話題になっても良かったであろう本。

 1928年~1945年までの表現規制手段「検閲」に焦点を当てた、若手近代史研究科による検閲解説本。僕のような専門外の人間がこんなことを言うのは生意気だろうけど、検閲の実態・実例を資料にそって分析・考察し、当時の検閲の特徴を、分かりやすく言語化している良書だと思う。

 また、学者以外の人たちに向けることをしっかりと意識した、砕けすぎず、しかし平易である表現と、文中のさりげないユーモアに爆笑しながら、帝国期日本の検閲の歴史を、恐ろしさも含めてしっかり学べるという稀有な本であると思う。啓蒙書としてのクオリティは高い。ディストピア事象を痛快に表現し、現実の(あるいは過去の)社会問題として国民の認識に上げようという試みは、故・小室直樹の著作にも通ずるものがあるように思う。

 さて、本書では冒頭述べたとおり、1928年~1945年に行われた検閲を、「空気の検閲」と表現する。これはどういうことか。

 検閲という作業は多忙に多忙を極める。ブラック企業どころの騒ぎではない。昭和戦前期の検閲では、新聞社や出版社から、出版物はすべて、内務省警保局図書課、地方庁の特高警察部門に「納本」され、ここで「審査」が行われる。これは「新聞紙法」と「出版法」により取り決められているので、従わない企業責任者は刑事責任を問われる。

 図書課による審査は、下級検閲官が安寧秩序紊乱(ぶんらん)や、公序良俗壊乱にあたるような、政治的な主義主張、猥褻および残酷な表現など、問題であるものがあった場合、該当箇所に線を引き、理由を添え押印し事務官に相談、事務官がそれに同意すれば発禁となり、無償有償を問わず、その表現物の流通がストップすることになる。

 もう想像つくけどかなり忙しそうだ。

 そこで「空気の検閲」である。これは「空気を読ませる検閲」である。つまり、当時の検閲の特徴は、自主規制をさせる方向に仕向けようとしたことであると筆者は分析する。

 現代人の記憶に新しい言葉に言い換えるならば、表現者に忖度をさせるということだ。それによって、検閲の手間を省かせようとしたのである。共産主義的な政治意見を述べる集会や出版物を発行した出版社には思想警察が押し入り、演説家やライターをしょっぴく。これが過激化した悪名高い横浜事件などは、検閲体制が生んだ悲劇としていまなお語り継がれている。

 検閲というのは基本的に事後処理であったため、イタチごっこの様相を呈する。ようは法整備ではおっつかない。そのため、法外での過剰な取締が生まれた。「今回は見逃す」とか「次やったらしょっぴく」などの恫喝同然の指導・教育をしていくわけだ。法制度による検閲が「正規の検閲」であるならば、これらは法外の取締を強化することによって空気を読ませるという「非正規の検閲」であると著者は分類する。植民地では更に厳しく取り締まられたことも、戦時下の検閲の特徴だった。

 ただ、表現者というのは、いつの時代でもパンクである。やっぱり、それでも問題表現は出てくる。紆余曲折を経て行き着く先は、表現規制関連の法制度の乱立と複雑化、厳罰化、特高警察・憲兵・陸軍らによる無権限検閲のやりたい放題。1945年に終戦するまで、検閲担当だった内務省ですら、どのように検閲が行われているかも整理しきれない状態のまま、検閲制度は猛威を奮った。

 結びでは、AIによる検閲についても触れられている。承知のように中国のインターネットではTwitterFacebook、Line、Googleなどの海外サイトやSNSは使用はできない。ネット上の投稿内容は監視されているため、政府権限で削除が可能である。技術がもう少し進歩すれば、更にシステマチックにネット上や出版物の"政府にとっての"問題表現を拾い上げることができるだろう。「正規の検閲」でも「非正規の検閲」でもない、「システムの検閲」が実現する社会がそこまで来ているかもしれない……。

 

 このような検閲の恐ろしさを見せられつつも、ユーモアに溢れている書であるという印象を持つのはなぜか。それは検閲の事例紹介にある。この紹介の仕方が大変に面白い。本書によると、検閲はセクションごとに分かれており、とりわけ風俗分野担当になると、日夜エロ本のページをまくっては、風俗壊乱にあたらぬかを確認することになる。役得じゃんかよ。

そのため、かれらはときにだれよりも詳しい淫本の読者となり、まただれよりも厳しい淫本の評論家となった。(P.19)

 あからさまな性描写はもちろん規制対象であるというのは想像できるが、「接吻」の表現が風俗壊乱の対象として取り締まられていたということには驚いた。ならば、昨今発刊されている少女漫画や青年雑誌の類は、当時の検閲官にしてみれば全部アウトだろうなあ。

 ところで、出版社としても表現者としても検閲に引っかからない対策を考える必要が出てくる。そこで伏字だ。これを用いるケースが出てくる。しかし、いくら伏せていても、検閲官にダメと判断されればダメだ。

 坂本石創の『軟い船』(尖端社)は、若き男女が逢引を繰り返す内容だが、肝心の場面になると、大量の伏せ字で覆い尽くされた。ここまですれば検閲に引っかかるまいと思ったのだろう。あまりの伏せ字の多さに、検閲官も引き写すのを諦めている。

 

 (今帰ラレテタマルモノカ!)と私は彼女を色々となだめたりすかしたりした。そしてとうと○○○○(以下伏字四〇字)夕子は、はたかつた裾のあたりをかきあはせてから懐中鏡をとり出して鬢(びん)のほつれ毛を上げてゐる。[中略]

 『まあかまはんぢやないか!』私は早口に、一息に云つて、ばしこく血に燃えた唇を押しあてた。彼女は敢えてこばみもしないで(以下八行に亙る三〇〇文字以上の伏字あり)この歓喜の頂上から、私は惨めにも真逆様に苦悩のどん底へと落ち込んで行くのであつた。

 

 ただ、こうしたやけっぱちな対応も検閲官を納得させられなかった。むしろ大量の伏字が「読者の推断を一層刺激する」として、同書は一九三〇年七月一三日付で発禁処分されてしまった。もはや検察官の解釈次第でなんでもありだった。

 こうしたキャッチーな話は、第一章「エロ・グロ・ナンセンス対検閲官(一九二八~一九三一年)」 に収録されているし、それよりも興味深い話が続々と飛び出すのが、第四章「聴く検閲、観る検閲(脚本、映画、放送、レコード)」だ。それまで「読む」専門だった検閲の目が、メディアの移り変わりによって、多くの表現物が対象になってきた変遷を追いつつも、ユニークな事例を多数挙げている。

 検閲の面白さ、恐ろしさ、そして複雑さを一気に一冊で知りたい人は、ぜひ読んでみて欲しい。