読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

点の記録

点だけ打って線を引けない男が、点と点を結ぼうとするブログです。

不安や恐怖はホログラム―平沢進「ホログラムを登る男」

音楽

※「Wolrd Cell 2015」のネタバレと、ホログラムを登る男の独自解釈が含まれます。なのであらすじとかそういうのが分かる人向けの記事です。DVDまで内容を知りたくない方や、お前の意見は聞かねえよという方は記事の閲覧をお控えください。念のため。


平沢ソロ13作品目

 平沢進さんの新譜が11月18日に発売された。
 タイトルは「ホログラムを登る男」

ホログラムを登る男

ホログラムを登る男

 

 前作、「現象の花の秘密」は弦楽器を全面に押し出したアレンジだったが、今回は電子音の増量、クラブミュージックで使われるような打ち込みのドラムが復活した。
 それに加え、平沢さん自身の声や、打ち込みで再現されたドビュッシーなどをサンプリングし、それらをバラバラに刻んだりピッチを無理やり変えて音楽に組み込むという平沢ソロの得意技も見られた。

World Cell 2015

 平沢さんはアルバムごとに「インタラクティブ・ライブ」という形態のライブを行っている。詳しくは過去記事、もしくは公式サイトをご覧頂きたい。
 今回の「World Cell2015」のライブの目的は、近未来からやってきた平沢(過去向く士)の指示に従いながら、さらに未来の時間軸からやってきた主体性を失った平沢(アヴァター)を利用して、世界の存続に必要だが、停止してしまっている「World Cell」というものを再稼働させること。なんのことやら。
 もっと簡単に説明すると、World Cellを稼働させないと全世界が停止してしまうらしいので、断崖絶壁の岩山をひたすら登る幻覚に苛まれているアヴァターの幻覚を打破し、正しいルートを通らせ、地の果てにあるWorld Cell再稼働を目指すことが目的。いいのよ、わからなくて。僕も分からないから。

 1日目、3日目を見に行ったのだけど、非常に良いライブだったと思う。
 毎度のことながら、ストーリーは全然わからなかったが、不安と恐怖に怯えながら、ただただ断崖絶壁を登り続けるという幻想に囚われ苦悶する「アヴァター」というキャラクターの姿は、非常に感情を揺さぶられた。

不安や恐怖はホログラム

 以下、ホログラムを登る男、それからWorld Cell 2015を体感した感想と解釈です。
 今まで抽象的で、大きな事象を扱っていた(のではないかとされる)平沢さんの歌詞世界が、一気にパーソナルな問題を扱ってきたなぁ~という印象がした。今までのアルバムは社会への批判や警鐘がメッセージとして(ギリギリ)読み取れたが、今回は個人の精神活動に対する啓発とも取れる内容のフレーズがちらほら伺える。

 我々が思い描く「不安」や「恐怖」、「悩み」とは一体何なのか、根本的なことに気づかせてくれる。それは脳内の情報処理、脳内物質の行き来が見せる「ホログラム」だ。この現象を「未来予測」「危機察知」とポジティブに捉えられる範疇ならばそれは問題ない。問題なのはそれが暴走することだ

 一度そうしたホログラムに捕らわれてしまうと、あらゆる障害は断崖絶壁のごとく迫り、その障害を乗り越えようと登り始めることができても後に引けず、あるいは、いつの間にか断崖絶壁のまっただ中にあり、常に「ありえない」「無理」という言葉に縛り付けられる。「ありえない」と「無理」という言葉は人間の可能性をぶった切る言葉だ。断崖絶壁にしがみつき、「助けてくれ」「もう無理だ」と喘ぎながら、それでも尚登り続けるしか無い苦行から解き放たれるには、これらの言葉とおさらばすることが必要だ。

「アヴァター」と「サテライト」

 物語の中で、「アヴァター」は「サテライト」からの司令を頼りに行動している。しかし、結局「サテライト」は存在しないものとストーリーでは説明される。
 いくらサテライトを頼ろうとサインを出しても応答がない。ホログラムの中でいくら正解を教えてもらおうと思っても、いつまでも正解は得られないのだ。

序列の序列の鳥にたくすサインは「迎えいらぬもう」
サテライト サテライト 応えは要らぬもう

 『アヴァター・アローン』より

 正解を教えてくれる存在は、いつもそばにいるわけではない。
 頼りにしている人からの応答が無いとき、例えば家族、友人、オンライン上の人々、質問サイト、神などなど、なんでもいいが、そこからの応答が無いだけで、まるでこの世から取り残された心地がして、孤独感に苛まれる。主体性を失った人は、何かに縋らなければ不安と恐怖で押しつぶされそうになる。ただこれは「アヴァター」のせいではない。主体性を失うような"光学現実"を見せていた"アシュオン"を参照にしていたWorld Cellが、人類をそのような方向へ導いた結果が「アヴァター」なのだとしたら、主体性の欠如は社会や周りの人間、あるいは倫理やモラルがさせていると解釈できる。

BAD ENDの「アヴァター」にならないために

 「アヴァター」はΣ-12(しぐまじゅうに)というロボットの目を通して自分を見ることによって、自分がただ地面に這いつくばっているだけだと気づく。しかし、直ぐにはその自分の姿を受け入れられない。「ありえない」とホログラムの世界に臨場感を置いたままだ。

 1日目はいきなり最良ENDのルートを辿ったらしく、「アヴァター」は「カタストロフ」と呼ばれる恐怖のピークを体験するも、「火事場のサリー」という助っ人キャラに冷静さを取り戻され、更にはΣ-12の目で再度自分の状態を確認することで、断崖絶壁かと思われていた実際は単なる地面に、自分の足で立つことができた。

 2,3日目は、Σ-12の目を持っていないルートだった。サリーが助言をしてくれたが、「無理だ……」と力なく、自らが創りだしたホログラムの断崖絶壁から滑り落ち、そのまま落ち続けることになった(その後はなんやかんや、別次元で元気にやってるみたいな補足があった)

 まず、「アヴァター」そのものにならないようにすることは難しい。
 価値観にがんじがらめにされた環境で人は育つ。何かしらの倫理観や価値観を、年を経る毎にいつの間にか埋め込まれていく。周囲の人間や社会の存在が、故意であるなしに関わらず、いつの間にかホログラムを我々に見せてくる。多数決により決まる倫理やモラルは人を縛り付ける。それは「無理」や「ありえない」という直接的な言葉ではないが、それに縛られ思考したならば、導き出される答えは「無理」や「ありえない」だろう。
 この社会の総意とも思えるような倫理やモラルだって、解釈の仕方は十人十色。
 場合によっては「アヴァター」のように、ネガティブな未来しか望めない断崖絶壁のホログラムに化けてしまうだろう。


 そうならないようにするためには、Σ-12の目の視点を受け入れ「火事場のサリー」の声に耳を傾けることだ。
 ロボットのように現状を捉え、自分の感情を抜きにして、自分を含めた周囲を俯瞰する視点を獲得しなければならない。Σ-12の目はホログラムの中の存在なので、「アヴァター」は自分を俯瞰する能力があった。しかしそれを納得するのに時間がかかった。
 物語終盤に出てくる「火事場のサリー」は「アヴァター」のホログラムの中の存在だ。「変な人」と「アヴァター」をなじりつつも「自分の状況をよく見て」「立ち上がって!」と土壇場になって「アヴァター」を鼓舞し、断崖絶壁(本当は地面)に立ち上がらせることに成功する。
 ネガティブなホログラムばかりを信仰してもいいことはない。サリーは挫折の前にやってきた。挫折の前にもしポジティブな声が聞こえたのなら、少しは耳を傾けても良さそうだ。極端な例だが、生きることに絶望して自殺をしようと思う段になって、もし「生きたい」という思いが欠片でもあったのなら、それに従うべきだ。

 注意したいのは、Σ-12の目もサリーもホログラムの中の存在だ。
 2,3日目では「無理だ」と停滞している最中にΣ-12の目は「アヴァター」の服のポケットから転げ落ち、通りすがりのゾンビに蹴っ飛ばされ失ってしまった。
 サリーは「アヴァター」にエールを送るも、「アヴァター」は「無理だ」と頑なにホログラムを信じこんだ。その結果サリーは「じゃあ落ちなさい」と態度を一変するのだ。
 ホログラムを脱する機会は、たとえホログラムを見ていても、常に自分の中にある。だがホログラムにとらわれすぎて、その視点に納得できなかったり、受け入れることができなかったなら、どんどんそのホログラムにとらわれていく。自分の中にすら見方が誰一人としていなくなってしまったBAD ENDの「アヴァター」にならないために、あなたも自分なりのΣ-12の目と火事場のサリーの存在を再認識してみては如何だろうか。

過去記事

achelou.hatenablog.com

 

 

achelou.hatenablog.com

関連リンク

noroom.susumuhirasawa.com

interactive-live.org