点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

眠りクソ読書、敗れる

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眠りクソ読書という種類のクソ読書がある。

難解な哲学書、退屈な歴史書、胡散臭い自己啓発書を読み、脳みそを「こんなことをしても意味がないのだぞ」という気にさせることで、意識のシャットダウンボタンが押されるのを待つというのが、眠りクソ読書だ。

クソ読書とは、「既存の真面目な読書態度からすると、クソみたいな読み方をする読書態度」のことで、山﨑が考案したことになっている。多分、「自由に気楽に読め」という読書法と80%被るが、世の中に出回っている「読書の型」は、大概は著者にとっての先輩から教わったような、「受け売り」をそのまま書いていたりするもので、純度の高いオリジナル読書法というのは存在しないに等しい。

だからクソ読書は僕が考案したと言っても別に構わないじゃないか。

むしろ、これほど不名誉、無意味な読書法は○○を参考にしました!とか書いてしまうと、その人に迷惑がかかる可能性がある(昔書いたクソ読書の記事には書いてしまったからいまさら遅いけど)。

 

眠りクソ読書にもどる。先程のルールは覚えているかな?

「難解な哲学書、退屈な歴史書、胡散臭い自己啓発書を読み、脳みそを「こんなことをしても意味がないのだぞ」という気にさせることで、意識のシャットダウンボタンが押されるのを待つ」という表現は、文字数を稼ぐため、ちょっと大げさに言ったのだ。

有り体に言えば、「つまらない本を読むことで眠る」ということだ。

 

 

いい本もあれば悪い本もあり。その判断基準は人それぞれであり。そして敢えて、「この本は僕にとってはクソである」と断定されたものを本棚から引っ張り出して、一言一句噛み締めながら読むというのが、眠りクソ読書である。

つまんねーんだもん。寝るでしょ。

 

しかし、ここ最近この方法で眠ることができない。

日頃、読書に耽っていたおかげで、どんな「クソ本」にも楽しみどころがあるということを発見してしまった。

論理的におかしいと思うところや、前提知識が間違っているところ、著者の意見が妥当性のかけらもなく笑ってしまうところなどを、脳が「楽しい」と認識しはじめてしまい、気がつけば4時などになっている。批判的読書──クリティカル・リーディングなんて格好つけることもできるが、やっていることは重箱の隅をつつく揚げ足取りにほかならない。

そういうことを気にしないで、字面だけ追っていくという方法もやってみた。それこそクソ読書である。しかし、普段頭の中でイメージを作りながら本を読むクセを作ってしまったので、ぼんやりではあるが、どうも著者の世界が立体的にイメージされて、「ちょっとこれはおかしいんでないの?」というおもしろポイントが出てくる。

 

じゃあななめ読み、速読はどうか。

一時期、騙されて速読本を実践していたことがあるが、ペラペラやっていると、本がクソなのではなく、自分がクソみたいな気持ちになってくるので、精神衛生悪化を懸念すべきと判断し、実施するに至らずとも却下した。

では遅読はどうか。1行を読むのに、魂をかけて挑む。しかし、これはその1行から様々な連想ゲームがはじまり、妄想をライフワークとしている僕は、正直クソ読書よりこっちのほうが楽しいと思ってしまうようで、これもだめ。

速読、遅読、両方ともだめ。なんたることか。

眠りクソ読書は使えなくなってしまった。

 

それだけ、興味関心の幅が広がったという前向きな見方はできるかもしれないけれど、別の方法を探さなければならない。一番苦しいのは、この事実に気がつくまでに、睡眠前の読書が、少しの楽しみになっていたことで、これを辞めねば安眠望めずということを、受け入れたくないと思い始めてしまっていることだ。

 

僕が一番興味のないことは何だろうか、といろいろ考えてみた。

これなんかどうだろうか。

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だめだ。なんかおもろい。椅子使うなって言ってるのに椅子使いたがる人がなかなか退かない会話聴こえて面白い。

 

世界一暇なコンテンツを教えて下さい。

散歩最強

僕は自分が正しいと思ってきたことを実践してきたおかげで鬱になった。

なので今度は、「今まで自分が正しいと思っていたことと逆のことをやる」という戦略を取ることにした。天の邪鬼戦略という。グレる、とも言える。

まずは内面的正義に関する情報を書き換えるところからはじめた。

うつでもいいじゃない。ニートでもいいじゃない。これから先、社会に復帰できなくてもいいじゃない。友達が減っても、家族と仲が悪くなっても、健康じゃなくても、生きていればいいじゃないか、というように思うと、もはや何も気にすることがなくなった。心がふわりと宙に浮き、軽くなった心地がしたのだ。

内面が、どぐされクズになった。さあ実践だ。

まずはタバコ!いままでタバコには悪い印象しかなかったが、果たして本当か?

調べてみると、「タバコ喫煙は人体に悪である」という論文と、「タバコ喫煙は健康と関係ない」という論文と、どっちも出てきた。では、医学でも意見の別れるところであるし、27歳にもなったので、タバコの一本でも経験してみるかと、兄弟の力を借りて、タバコを吸うことにした。

存外、美味しかった。これが良くなった。結構吸った。吸えてしまったのだ。

母親はタバコに関して何も言わなかったのだが、父親が僕のことを猛烈に心配してくれたようで、タバコはやめておけということになった。ここで、いままでの僕であれば、ハイ分かりました、タバコは吸いません……というところだが、現在は天の邪鬼キャンペーンである。反抗するべきだ。

 

できなかった。やはり、親からの愛情に勝てるほどの反骨精神は持てなかった。親の意見を尊重し、うつ療養中はタバコに手を出すのをやめた。健康になってから吸おう。天の邪鬼戦略は、実践編で見事に初戦敗退した。

あーあ。やはり、僕がこれだと思ったものは間違えているのだ……と今までの僕だったら思うところだが、今は天の邪鬼キャンペーン中なので、次なる実践編を探している最中である。法律を犯す、というリスクは取りたくない。

というか、もしかすると、SNS普及移行、多くの人が著作権違反をしているわけで、僕も知らない間には随分と音源をダウンロートしたり云々していたので、すでに実行済みである。

いくら天の邪鬼といえども、多くの人から恨まれるようなことをしたいとは思わない。だから、法律違反はしない。

 

さて、次なる実践編を思いつかないまま、散歩にでかけた。タバコが吸いたくなったからである。しかしタバコは吸えない。どうしようか……と考えているうちに、いつのまにか20~30分歩いていた。

ふと気がつくと、自然豊かな公園の近くに立っていた。もうしばらく歩くと大きな湖がある公園だ。とりあえず、そこが見える場所で、のんびり休憩しよう。

湖は人工のもので、貯水池として作られたもので、このあたりでは有名なスポットである。名を多摩湖と言う。夕方から夜にかけて、そこでぼーっとしたあと、帰宅のために散歩をしはじめた。その帰り道に、タバコへの欲求や、自己嫌悪感、その他、ありとあらゆる自分の中の尺度に対するこだわりが、一歩一歩、歩みを進めるたびに、崩れていくのを感じた。

夜だというのに、先程までの陰惨とした散歩道が、昼間のように輝いて見える。いよいよ僕も統合失調症の仲間入りか?というほどに、妄想と現実の区別が曖昧になって、夢見心地のまま帰宅した。

大げさではなく、散歩は僕の抱えていたストレスを、洗いざらい流したのである。

 

そういえば、昔活躍した哲学者やら科学者やらは、散歩中や、ぼーっとしているときに研究分野の閃きを得るというエピソードをよく聞く。京都には哲学の道なんてのがあるくらいだ。実際に閃きを得られるか分からないが、ストレス解消効果はありそうだ。

ちょっと散歩について調べてみると、足を動かすことで脳の血流がよくなったり、ネガティブな情報から気がそれたりして、ドーパミンなどが分泌されるとか、そんな科学的理由からストレス解消になるらしい。科学に理由を求めると、なんだかつまらなく感じるけれど、なるほど説得力があるなあと。

格ゲー界のヒーロー、梅原大吾氏も、格ゲーの練習に飽きたら散歩をするということを、テレビ番組の密着取材か何かで言っていた気がする。最近格ゲーをはじめた山﨑としても、飽きたら散歩。読書も飽きたら散歩。ついでに、甘いものやタバコが吸いたくなったら、散歩に出かけるのがいいのかもしれない。

運動不足の人間は20分くらいから始めれば、特別な病気で無い限り、ほぼノーリスクでストレス解消できるのではないか。

排気ガスが充満する都市部で無い限り、肺がんのリスクは減るだろう。都会羨ましいという煩悩も消える。郊外のきれいともきたないともつかない空気を軽やかに吸い込みながら、明日も明後日も散歩をしようと思う。

散歩すらできなかった3月から比べると、回復してきているのを実感する。あの時は、すれ違う人は仕事に行くのに、自分は仕事をしていないのだという劣等感で押しつぶされるほどに鬱屈していたが、一度天の邪鬼戦略でニートを肯定した僕は、散歩にでかけてもノーストレスだ。

もうすこし余裕ができたら、鬱の経過を記事にしてみようか。

とにかく、散歩の威力は馬鹿にならない。暇な人は散歩しよう。

天才たちの日課

天才たちの日課

 

 

『イカロス』──観られるうちに観ておけ

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オリンピックにおける、国家主導のドーピングスキャンダルに、映画監督兼アマチュア自転車走者が巻き込まれるドキュメンタリー。

2017年の映画だ。オスカー取っている作品らしく、全然知らなかった。お恥ずかしい。

上記のように、内容を一言で言い表そうとすると、まったくフィクションに思えるけれど、これはドキュメンタリー映画だ。

ドキュメンタリーだって、何もすべてがノンフィクションとは言わない。撮影の方法で、ドキュメンタリーだって嘘を付ける。監督の憶測、推論、証言者の主観的な意見が根拠になっているドキュメンタリーは要注意だが、しかし、この映画に出てくる根拠は、国際オリンピック委員会も、反ドーピング機関も認めている。

カメラが密着するのは最前線、ドーピング検査をするラボの所長だ。彼は国家からの指示で、陰性反応が出る健全な尿サンプルと、陽性反応が出る尿サンプルのすり替えを行っていた。

ブライアン・フォーゲル監督はアマチュア自転車レース走者でもある。大会で興味本位にドーピングを使い、実際に結果が出るのかという人体実験を記録に残そうというところからはじまる。大会側にドーピングをばれないように、効率よく実行するシステムのアドバイザ一として、グリゴリー・ロドチェンコフと関係を持った。彼が上述のドーピング防止機関の研究所所長その人である。

彼の登場によって、監督による人体実験は順調(?)に進むと思われた。しかし、ドイツ公共放送で、ロシア国家主導のドーピングプログラムの内容が放送され、世界ドーピング防止機構(WADA)が、番組で取り上げられた内容の調査をし、その内容が事実であることを認めた。

この瞬間から、映画のテーマがガラッと変わる。

アドバイザーが重要参考人となり、ロシア政府から命を狙われることになる。国家を離れ、監督と合流したロドチェンコフは、研究所で行われた不正を告発することを決意し、監督がそれを協力するという、とんでもない展開になる。

何を見せられているのか、途中で分からなくなる。最初は、ハンバーガー毎日食ったらどれくらい太るかな?というドキュメンタリー『スーパー・サイズ・ミー』的な、監督自身によるドーピング人体実験的なドキュメンタリーであると思ったのに。

こんなにもスリリングな作品があってよいものか。というかこれは作品なのか。

入ってくる情報をどう処理をすればいいのか分からない。何よりも怖いのが、あれだけの証拠を突きつけられても強気な姿勢を取ることができるロシア政府だ。オリンピックに対する、というよりもスポーツ全般に対する不信感は増すこと間違いなし。あっちこっちで日夜ドーピングがされていてもおかしくない。闇が深いというレベルの話ではない。

ロドチェンコフはジョージ・オーウェル1984』に衝撃を受け、愛読書であると語っている。映画後半の随所で、ロドチェンコフ本人による朗読が挿入されるのだけれど、小説の一節を、これほど重みを受けて味わったのは始めてだ。

「事実は小説より奇なり」と評するのはあまりにも安っぽいかもしれないが、全くもって、こう表現するしかない。ドーピングの闇を命がけで告発したロドチェンコフは、現在、ロシアの監視下にあるらしい。無事を祈る。

ロシアドーピング問題なんて見向きもしなかった人向けの情報↓

kotobank.jp

国家という怪物が個人に牙を剥くとき、どうなるのか。体感したくもないが、それを監督とロドチェンコフの力を借りて体感できる。観られるうちに、観ておけ。これだけのために、Netflixに入会しても損はない。