点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

いろいろありすぎた2019年

頭痛がする中で、年内最後のブログ記事を更新する。最近ブログ記事を更新する気になれなかった理由は書けば書くほど言い訳がましくなるので、しないことにする。2019年を言い訳で締めくくるわけにはいかない。

うつ病

2019年はうつ病によって生活基盤が大きく崩れた。家族にも多大な迷惑をかけた。今までの真面目な態度を脱するために、極端に不真面目になって、親とも揉めた。恩を仇で返してしまったこともあったが、それは来年から返していけば良い。

うつ病という体験は、僕の人生の中で財産になるだろう。

気力(というより脳機能の低下)によって、ここまで自分の身体が動かなくなるということや、希死念慮が募って自殺未遂を起こしたりなどするという恐ろしい体験を学習することができた。しかも、幸運なことに、これを乗り越えることができた。

周囲の人には多大な迷惑をかけたけれども、全くの失敗の記憶として残るものではなかった。うつ病になると、周囲のどんな人の言葉がけも無意味になる。衝動的になる。恐ろしい病気であると、冷静になった今だからふり返ることができる。

現在はうつは寛解に向かっている。自分の好きな書籍を扱う仕事にも就くことができた。我慢しながら罪悪感を感じる仕事をここ数年やってきたが、そこから脱出するいいきっかけだったのだと思うことにしている。

物事の解釈の仕方が変わる

うつからの回復の過程で、物事を自分に都合よく受け止めることもできるようになった。これが非常に大きな収穫だ。

今までは、自分を責めているようで、行動が伴っていなかった状態を自己嫌悪していたが、自己嫌悪は不健全な精神状態の入り口であると、はっきり分かった。

なので、自己嫌悪はまるっと捨てた。

自己嫌悪は無意味ではないが、次につなげる行動が伴って、はじめて実りあるものとなる。なので、自己嫌悪をしたら、それと同じかそれ以上に、自分自身を褒め、物事を都合よく解釈するというある種の「バカさ」を身に着けたほうが、人生は楽しくなるのだということを、2019年は痛感することができた。

脱「正解」

また、これは年末に気がついたことだけれど、僕は自己啓発難民の頃より、無意識に「正解」を追い求めていたことに気がついた。

正解か不正解かというのは、その時の時勢におおきく依存する相対的なものであり、絶対的なものではない。自分のやりたいことよりも優先して、正しさを重んじていた。行動するその時になって、「自分の行動は、果たして正解か不正解か」という堅苦しい思考で物事を判断していたが、これは本当に精神に毒だと痛感した。人間はネガティブな情報を持ちやすい生き物である。だから、自分の取った行動は不正解であると過去を捻じ曲げる可能性が高い。

なので、「正解か否か」という価値基準を捨てた。

自分の行動に責任を持つというのは、実際にその行動を起こした結果に対して取れば良いのであって、「正解か不正解か」ということを、行動も起こしていないうちに、分からない分からないとビクビクして、身動きが取れなくなるのは非常に勿体ない。この「正解か不正解か」という尺度のおかげで、何本ものブログ記事が下書きストックという肥溜めに消えていった。

捨てることを学んだ2019年

うつ病になったことで、自分を苦しめていた価値基準を知る時間が増えた。その結果、残すものは残し、捨てるものは捨てるということができた。今後も自分の人生を苦しめるものに関しては、率先して捨てていく覚悟である。もう少し我を通すことを覚え、不必要な自責の念を排除することができれば、おそらく、今よりも過ごしやすく日々を送ることができると踏んでいる。

2020年はどんな年になるのか。こういう風な年にしたい!ということをブログで言うと、大概はそのとおりにならないので胸にしまっておくけれど、真面目さとか、正解とか、もうそういうのとはオサラバできるのであればしていきたい。

自分を苦しめているのは自分である。平和な日本の平和な環境に生きているからこんな風に思えるのだろうけれど、結局はそういうことなのだと学べた2019年だった。

「朝のみそぎ」とヤル気術

『知的トレーニングの技術』のP.44には、「ヤル気術」という題材で、学習におけるモチベーションの維持には習慣化が寛容であるという内容が書かれている。

本書は独学、学習の方法論を、過去の知の巨匠に求め、参考にし、実用可能なものを読者が実践できるようにまとめられている。このヤル気術では、フランスの作家ポール・ヴァレリーの「朝のみそぎ」が取り上げられている。

知的トレーニングの技術〔完全独習版〕 (ちくま学芸文庫)

知的トレーニングの技術〔完全独習版〕 (ちくま学芸文庫)

 

彼の「朝のみそぎ」と呼ぶ知的習慣は、ヤル気術の典型例だろう。
 ヴァレリーは毎朝夜明け前に起床し、数時間孤独のうちに思索・瞑想し、想を練り、知性を自由の世界に遊ばせ、その時々の思いつきをノートに書きとめる努力を日課として、二三歳から死ぬまで続けた。『手帳』と呼ばれて刊行されているこのノートは、二五四冊、三万ページに及ぶ。 (P.44)

フランスの日の出は日本に比べると遅い。冬は8時台だ。だから5時とか6時とかに起きればよろしい。日本人が夜明けまでにいろいろ夢想する時間を作ろうとすると、夏などは朝の4時に起きなければならないのに対して、フランスではそれよりも約2時間遅い。ヴァレリーにあこがれて、自分でも「手帳(カイエ)」をしたためようとした日本人は、睡眠不足に陥り、思索の時間と寿命を等価交換する羽目になるかもしれない。

ヴァレリー全集カイエ篇〈1〉 (1980年)

ヴァレリー全集カイエ篇〈1〉 (1980年)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1980/06
  • メディア:
 

もちろん、ここで『知的トレーニングの技術』が取り上げたい大事なことは「習慣化」だ。

早起きして想像の世界へダイブすることは、方法論のひとつであって、これを即座に真似するべしということでは無い。ヤル気を持続させるための例は他にも、森鴎外らが取り上げられている。また、ヤル気は外的要因ではなく、内発的な力によって動くものであり、医学や心理学が動機づけの研究をしても、大抵うまく言っていないという辛口なコメントも見受けられるのが面白い。

ヤル気の最も理想的な状態は、「自発的な選択から自然と体が動いてしまう」という状態だと思われる。これは既存の心理学などの用語であえて言うと、ミハイ・チクセントミハイらが「フロー」と呼ぶような心理状態に近い。しかし、フローには前提条件となる様々な要素が8つほどあり、ヤル気の持続という視点に立つといささか煩雑だ。目指すべき状態が煩雑であると、なかなか続かないし、手段が目的化してしまうことがある。

つまり、ヤル気を出すための方法を探していたのに、そのヤル気を出す方法を達成するのに努力するという本末転倒はなはだしい事態に陥る。フロー状態に持っていくための努力が達成されていない自分がいけないと自己嫌悪などにも嵌る。すると精神を病んでしまう可能性すらある。だから、僕はヤル気の理想状態の条件を、「自発的な選択から自然と体が動いてしまう」の一点(もしくは「自発的な選択」と「自然と体が動く」の二点)だけに絞っている。

ヤル気を出すための方法論に、論文やら科学的データを根拠にする必要はさほど意味をなさないというのは、自己啓発難民であった僕も思うところだ。先述のとおり、『知的トレーニングの技術』でも教育学や医学などは動機づけを解明しきれていないことに触れている。悪質だろうが良質だろうが、最近のセルフヘルプの特徴は、「医学や認知科学を根拠に○○をしましょう」であるが、残念ながら人間の認知はそんなに単純なものではない。

ヤル気、つまりエネルギーになるのは、その人その人で違う。こう書くとひどく当たり前のことだが、それを無視して方法論だけに頼っても無駄なのだ。ヴァレリーには「朝のみそぎ」をするだけの、内発的な動機があったはずだ。自然と体が動くなにかがあったに違いない。そういったものが見つかっていない内から、無理やりヤル気をひり出そうとしても、糞詰まりを起こすだけだと、夜明け前に思う今日このごろである。

人権としての教育──教育、学習の権利と義務の構造を知る

人権としての教育 (岩波現代文庫)

人権としての教育 (岩波現代文庫)

権利として、教育はどのように保障されているのか。

僕らは義務教育を受け、当たり前のようにある程度の教育を施されている。僕らの世代で文盲の人は珍しく、四則演算ができない人間は稀だ。たとえ学校に行かなくても、この2つは最低限身についているという人が殆どではないか。それはなぜだろう。

戦後の日本が、教育を受ける権利の主張ができるようになり、それを保証するという世界的な機運によって、学校制度が整備されていったというのが一般的な理解だ。そうした通俗的な理解よりも一歩深く知りたいなら、『人権としての教育』は非常におすすめの一冊だ。

本書は2部構成となっている。

第1部「国民の学習権と教育権」では、学習権、教育権そのものの構造について、1から解説されている。第2部「日本における教育と教育法」では、戦前から戦後にかけての教育法の歴史を、法制度を主軸にふり返る。

本書一冊で、教育、学習の権利の正確、法律の構造や問題点、そしてそれらをめぐる社会の動態を知ることができる。ながらく絶版状態にあったらしいが、今年の夏に岩波現代文庫入りとなった。その際に追補改訂され、『「国民の教育権と教育の自由」再論考』と『憲法と新・旧教育基本法』が収録されたのが本書だ。

僕の興味関心と一番マッチしたのは、第1部2章「子どもの発達と子供の権利」だ。地元の子ども会や、冒険遊び場を運営するスタッフとして活動をしていたため、子どもたちの教育に関する文献に出会えたのは良かった。第7節「人権と子どもの権利」では、次のように書かれている。

子どもの権利の視点は、人権思想の展開の中できわめて重要な意味をもち、人権思想の内実を豊かにする視点である。すでにみてきたように、子どもにとっての学習権というのは、子どもの人権の中心であると同時に、その将来に亘ってその他の人権の実質的保障のために不可欠のものである。しかも子どもの権利を保障するためには、親の人権が保障されていなければならず、子どもの学習権が保障されるためには、同時に教師の権利(その人権と教育権)も保障されていなければならない。(P.70)

子どもの人権、ここではとりわけ学習権だが、これを考えるということは、それを支える大人の人権も保障しなければならない。当たり前の視点のようで、実は蔑ろにされているように思える。大人の生存権が保障されない限り、その子のあらゆる権利が保障されることは極めて難しい。子どもの権利を考えることは、当時の人権思想を展開していく際に、極めて重要な切り口であったことが伺える。

僕はこの本を読んで、一口に「子どもの権利」と言っても一筋縄では行かない奥深さを知った。

子どもの権利を強調するということは、「人権の捉え方を人間の存在の多様な様態(子どもであり、老人であり、障害者であり、健常者である。)と、多様な要求にそくして内容を豊かにすることを強調する(P.386)」ことに繋がる。つまり全国民の権利にまたがる非常に重要な視点であり、その構造を分析して理解するには、膨大な労力がかかる。

全国民の権利ということは、この手のテーマに取り組む際には、著者のような憲法学的な視点が不可欠だということも学んだ。どの水準の憲法理解が必要であるのか、またどのように論考していくのかという資料として、教育をめぐる権利の研究者を目指す人や、教育の分野で活躍するプロにとっての必携書となるのでは。