点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||の感想(ネタバレあり)

タイトルはTwitterのミュートワード避けである。誠に卑しい悪知恵であり、こんなタイトルをつける卑しい人間のエヴァ感想なんぞ卑しいに決まっているので、読みたくない人はブラウザバックを推奨する。

さらに言えば、「シン・エヴァ 感想」と検索すれば読めるような他の記事と同じような感想であることも予告しておく。

なお、シン・エヴァは一度しか見ていないし、それまでのシリーズも3周した程度なので、ガチガチのエヴァファンからすると間違いだらけだ!とか、解釈違い!などあるかもしれないことを断っておく。これは解説ではなく感想、日記なので、設定やストーリーの正確性については、各自資料を読まれたし。

あとこれがいちばん大事なことだが、ネタバレもする。注意されますよう。

短い感想

個人的に100点満点中100兆点だった。

僕の「これが見たかった」を満たすと同時に、庵野監督の「これでケリをつけてやる」という細部に渡る気迫が伝わって、TVアニメ〜新劇場版のエヴァシリーズに気持ちよくさようならと告げることができた。シンジと共に、ようやく大人になれた気がした。

思慮深い人はさらなる考察や、シンジがラストに作った新世紀に思いを馳せるのだろうけれど、僕にはその気力がない。

そして僕の個人的なエヴァ理解には、そうする必要がもう無い。大人になったシンジは我々の心配の外に飛び出してしまった。庵野監督の心からも、我々視聴者の心の中からも。

シン・エヴァとこれまでの作品の違い

シン・エヴァに至るまでのTV版、旧劇場版〜新劇場版:Qに至るまでの作品は、人の不全感がテーマだったと思う。そしてシン・エヴァではそれにケリをつける作品だ。

訳がわからないまま世界の宿命に巻き込まれるシンジ、人の手によって作られ入れ替え可能な生物と自認する綾波エヴァパイロットになるために生まれ無償の愛に憧れ飢えていたアスカ、これらの子どもたちをエヴァとセットで管理し、謎の生命体使徒との攻防を制御しようとする周囲の大人たち、つまり全ての登場人物が抱える、この世や人の心のままならなさ、不全感を全面に押し出したものであった。

僕とあなたの関係性の変化が、世界に多大なる影響を与えてしまう。主要な登場人物全員がそういう状況に置かれた世界観のなかで、それぞれのポジションで抱える問題の根本的な解決が、なかなかできない。旧劇場版では、主要メンバーにおいては、様々な人間関係上の不和や使命の未達成を抱えたまま人類がオレンジジュース……違ったLCL溶液に変化してひとつになるという皮肉さがある。

 

さて新劇場版では、旧劇場版とは少し毛色が違う。特に破では、シンジの行動にシンジ自身の意志が明確に見て取れる箇所があり、ラストシーンでは「これはハピエンにワンチャンあるんでないか?」と期待させてQへと続く。

しかし、自分の希望どおりに判断し、行動した結果、ニアサードインパクトなる厄災(人類にとってだが)が発動し、14年間の眠りから目覚めたシンジが知るのは、自分の行為が人類にさらなるダメージを与えることになったということだった。親父の言うとおりにエヴァにのり、周囲の人間の期待に押しつぶされながらも従い、わずかな自分の希望どおりに頑張った結果がこれかよ!と、とにかくシンジが不憫である。本当に可愛そう。これがQまで。

 

シン・エヴァはそうして不全感やサバイバーズ・ギルトを抱えまくったシンジが、そしてゲンドウの暴走を止められなかった元ネルフ、現ヴィレのメンバーが、そのケリをつけるための物語だ。そしてゲンドウの、シンジに対する懺悔の物語でもあった。

自分たちの前の世代のやらかしたことを、次の世代が落とし前をつけるというのは、同じく庵野監督作品である『シン・ゴジラ』で見せられたストーリー図式と似ている。シンジはゲンドウの、ミサトは父である葛城博士の尻ぬぐいのために、最終局面で大活躍をする。

シンジ、大人になる

人間は大事な物の喪失により青年から大人になるというメッセージを、岡田斗司夫ガンダムから読み取った。それはエヴァにも見受けられる。

シンジは物語中盤、無償の愛を向けてくれていた綾波型クローンを眼の前で失うことで、散々泣きはらした後に最終作戦同行を願い出る(泣きはらす描写は無いが、作戦同行を願い出るシーンでは、シンジの目元が腫れている)。親父がしでかしたことを責任持ってケリをつけようと決意をしたのが、母のクローンの死であった。母の記憶が殆どないシンジの、母(的なもの)との別れであったのだと思う。この出来事が、シンジをまず青年に変身させた。

そこからのシンジは、他者のメッセージを、他者の視点から、または俯瞰した視点から理解しようとする。視聴中、終盤のシンジは大人への階段を昇っている最中に思えた。人により大人の定義は異なるだろうが、「自我以外も尊重しながら行動できる」ことは、大人になるための条件であると思う。

最後に父に真っ向から対峙し、父を理解しようとするシンジは、これまでのエヴァのシンジには無いキャラクター性を帯びている。他人の言葉を受け止め、自分なりの言葉に言い換えたりして、自分はあなたの話を聞いているのだと伝える。し、シンジ……!成長したのう……!と自分のことを棚に上げて感動していた。

最後に、宇部新川駅のホームで、父と母の分身であるカヲルとレイが、電車に乗ってどこかへ行くのを見送る。これで本当にお別れだ。そしてマリという共に生きる存在を得ることで、シンジは大人になった。

犠牲から補完へ

エヴァには、「何かを達成するには、何かを犠牲にしなければならない」という理屈が高頻度で登場する。エヴァパイロットの仕組みにしかり、TV版の綾波自爆にしかり、旧劇場版人類補完計画にしかり、シリーズを通したカヲルの末路しかり、シン・エヴァ作中のミサトの最期しかり。それはシンジが新しい世界を作る権利を握ったときもそうだった。

シン・エヴァ最終局面では、決死の作戦の結果、全てのエヴァンゲリオンと自分を生贄に捧げて、シンジはエヴァの無い世界を作ろうとした。すべてを終え、世界が色を失い無になろうとしたとき、真希波マリが世界に色をつけながら現れる。

岡田斗司夫に言わせると、あれは庵野監督にとっての妻、安野モヨコ夫人であるらしい。そのアイディアを借りるなら、シンジが燃え尽き症候群に陥ろうとしたところを、真希波に助け出されたと解釈したい。少し無理やりで、ありきたりかもしれないけれど。

人間には支え合う存在が必要だ。綺麗事で言っているのではない。本能レベルで人間は社会的動物である。孤独はヘビースモーキングと同等のストレスを生み出すことは知られている。支えるだけでも潰れてしまうし、支えられるだけでは申し訳なくなる。支え合う存在がいない(と思い込んでいる)人間は、生きることに難しさを感じる。

自我と他我の利害関係の調整によって、自我を蔑ろにして精神をすり減らすものもいれば、自我に固執して暴走するものもいる。つぶれかけた時に必要なのは、何者でもなくなりそうになったシンジの手を取りすくい上げ、どのような形であれ共に生きてくれるマリのような他者だ。

シンジの世界改変により、今まで犠牲になったものが完全にリセットされた場面は無かったと記憶している。なので犠牲の思想は完全に否定されてわけではないと考える。

だが人類は、ゲンドウの思い描いたような、身体を犠牲にして、完全なる意識無意識の結合をせずとも、お互いを補完し合いながら生きていける。艱難辛苦を越境するのに必要なのは、孤独や犠牲ではなく、自分がかけがえのないと思える存在による補完という選択肢もあり得る、という解釈も、アリかなーってね。

蛇足

僕は躁うつを拗らせたことで、迷惑をかけるくらいなら一人死にゆくのが良いと本気で思うことがある。勝手に孤独感を自己生成することがある。

たがシン・エヴァを見て、これは他人事ではないなぁと考えたくなった。

こんな自分にも、仲良くしてくれる友人や、ボロボロの状態で弱音を吐いていても家族でいてくれる人間がいることを思い出せた。いつか彼らが困ったとき、補い合える、支えになれる人間になりたい。そう思うと、目の前にそびえる分厚い壁である躁うつ病に向き合える力が出てくる。まさかエヴァで他者を想う重要さに目を向けさせられるとは思わなかった。

 

庵野監督、素敵な作品を本当にありがとうございました。シン・ウルトラマン、シン・仮面ライダーめちゃ期待してます。

「焦らない」ための、牛

うつ病になってから、一番実践が難しいと感じるのは、「焦らない」ということだと思う。

回復、寛解を焦るあまりに、不必要な努力をしてしまい、精神を消耗し、さらにうつの度合いをひどくしてしまうというのは、うつ病アルアルだ。

うつ病になってから、仕事を逆に休まないようにしようとして、度々体調を崩していることを医師に相談した。すると「キミに足りないのは開き直りだ」とアドバイスをされた。

「仕事を休んでしまうと思うのではなく、うつ病なのに行けるときに行ってあげているとか、それくらいに思ったほうが丁度いいかもしれない。ゆっくり行こう」ということである。ようは「焦るな」ということだ。

アホな僕は言葉どおり実践しようとしたが、あからさまに極端な開き直りは、逆に自分の欠点を増強させそうで恐怖を覚えたので、ちょうどよろしい開き直りができるような、参考となるモデルを探すことにした。

自分自身の経験に根ざすメンタルコントロール法には、もうあまり信頼ができなくなっているので、取っ掛かりとして私淑対象を探そうとういことだ。

まず、「冷静沈着だがやるときはやる系の偉人」を探したが、やることをやるだけの下地が出来上がっており、比べなくても良いのに、自分の下地や素材や才能なんかと照らし合わせては、勝てもしない勝負へと自動的に持ち込んでしまうという「絶対敗北の比較」が発動するので、十数名調べたあたりで人間から離れようと思った。

また、自己啓発難民の時代と同じような、精神依存関係を引き起こさせるカリスマを引き当てた場合、今度こそ目がくらんで脱出不可能な気もしている。

そこで、思いついたのは牛だ。

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ウシは哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ウシ亜科の動物。学名Bos taurus。

牛は「牛歩」という言葉があるくらい、歩くのが遅い。しばしば、慌ただしい人やラディカルな人、血気盛んな人などに対して、「牛のようになりなさい」とか声がかけられる。

夏目漱石が、若き芥川龍之介久米正雄に宛てたとされる手紙などが代表的だ。代表的というか、現代に至る「牛のようになれ」論はここが元ネタだと思われる。

 牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老獪なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事ある相の子位な程度のものです。
 あせつては不可(いけま)せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與(あた)へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。(中略)牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
 是から湯に入ります。

出典:『漱石全集 第15巻』續書簡集(岩波書店、昭和42年2月18日発行)
引用元:http://sybrma.sakura.ne.jp/202sousekinotegami.html

我々はとかく馬になりたがる、というのは衝動性の高い僕のような人間にとっては耳が痛い。問題の解決を焦るあまり、自分の能力を過信し、あるいはまた過度に不信しながら、とにかく行動してしまえと焦る。これにより、あらゆるトラブルを起こしてきた。

焦っても良いことはない。今までの人生から嫌というほど学んでいるはずなのに、どうしても馬のように走れないかと夢想するのは、学べていないからか。しかし漱石先生であったとしても「いや、牛になることは必要とか言ったけどさ、私も牛と馬のあいのこのようなもんだから……」と自虐しているので、なかなか難しいことなんだろう。

というか漱石はノイローゼを患ってぶり返しまくっていたので、周囲の人間から「焦るな」とか色々言われていたはず。そんな中で、牛を見習うという視点はさすがだなあと思うわけです。もしかしたら、牛を見習うという彼の視点にも、ルーツがあるかもしれないけれども。

漱石書簡集 (岩波文庫)

漱石書簡集 (岩波文庫)

  • 作者:夏目 漱石
  • 発売日: 1990/04/16
  • メディア: 文庫
 

 さて、しかし牛は本当に遅いのか。

闘牛を見よ。人間を遥かに凌ぐスピードで迫る牛を交わすからこそ見世物として成立している。牛追いまつりなども、人間に引けを取らない牛を追いかけるという課題が設定されているから燃える。

気になったので調べた。実際に牛の歩くスピードはどのくらいなのか。

速歩きで4.5Km/hらしい。*1人間の歩行がゆっくりめで3.2km/h、普通で4.0km/h、速歩きで5.6km/hであるらしい*2ので、誤差の範囲間もあるが、確かに人間よりも少し遅い。

走る速度は牛の種類による。放牧されている牛は20km/hほどで、ヌーは60km/hほどだとか。ところで、日本人が思い浮かべる牛はヌーではない。漱石も、「牛は超然と人間を押す」と言っているから、歩くにしても走るにしても、家畜化された牛を想定しているはずだ。なので参考にすべきは前牛である。歩くにしても、走るにしても、牛はまあ、誤差の範囲だが人間よりも遅い。

いや、漱石が言っているのは実際の速度ではなく、あの風格のことであるということくらい理解している。だが実際どんなくらいなのかな?と知ることで、牛を参考にする下地を作っている。これは一種の儀式だ。

「超然として押す」という表現も好きだ。超然とは一般的に、物事にこだわらず、平然とし、世俗に流されない状態のことだ。些細なことに気を取られないが、しかし着実に歩を進める(ように見える)、できることをやっていくというイメージは持ちやすい。個人の社会的生活における一挙手一投足の良し悪しの判断なんて、環境が決めることだし、別に拘る必要はない。

「焦らないこと」を教えてくれる師匠は、牛に決まりそうだ。

余談だが、私淑対象を人以外にすることはメリットがある。比較しても意味がないことだ。牛に負ける部分も勝っている部分も同じくらいたくさんあるが、生物学的な違いだとか、そもそもそうした勝ち負けの価値観は人間のみの解釈であるとか、そうした理由から、「だったらなんだというのだ」と言える。

「同じようなことが人間でも言えるじゃないか。生まれも育ちも違うし、持って生まれた能力も違うし、価値観なんて完全に同一な人間などこの世にいないことを認めれば、比較しても意味がないのではないか」と言われるかもしれない。それはそのとおりなんだけれども、ナイーブな僕の脳みそは、どうにも納得してくれない。諦めていただきたい。

では是から牛にならふと思ひます。

くっちゃねくっちゃね…………(牛先生、そして漱石先生、ごめんなさい)

*1:ウシの歩行・走行速度の負荷強度と心拍数および血中乳酸値の関係より、乳酸がたまり始める心拍数と走行速度を調べた所、分速75m/hから、乳酸濃度の高まりが認められることから

*2:明治安田新宿健診センターの解説

それでも「気合い」は必要だ

心理学インフルエンサーたちにより、「意志力」を消耗せず日々の暮らしを充実させる術が流通している。このようにすれば、やる気が起きるとか、そういうアレだ。

しかし、最終的には「やる・やらない」という判断を個々人がすることになる、という視点があまり語られないことに、疑問がある。

そこで、昨今の意志力省エネの潮流の中で軽視されてきた、「気合い」の重要性について再検討する。

 

目標を物凄く細かくすることによって、一歩でも前進するという方法がある。読書猿さんの『独学大全』や、スティーヴン・ガイズの『小さな習慣』で取り上げられているテクニックであり、自分の好きな分野には、僕にも一定の効果があった。

だが、毎回失敗するのが、「1日1回腕立て伏せをする」という目標で、3日と持たない。それからさらに小さくして、「1日1回筋トレの動画を観る」とか「1日1回筋トレについて考える」というような目標も未達に終わっている。じゃあやらなくていいじゃん、となる。

ただ、僕はこのままだと糖尿病になりそうな勢いで体重が増えている。それでも、未来の闘病生活と、現在の運動・食生活の改善を天秤にかけたとき、どうしても現在の生活維持の方に針が触れる。どうしたらいいんだろう………

さて、これ読んで、どう思いましたか?

「やりたくないならやらないで、病気になれば?それは自分の責任でしょ」という意見が出てきませんか?

そこで僕が、

「それでも病気になりたくないんだ!ただ、自炊も続かないし、献立を立てるのも難しい、良質な栄養のある食べ物を買うお金もないんだ!うわーん!誰か助けて!」

と言い出したら、なんと声をかけますか?

 「コイツはだめだ」と声をかけずに去るのが一番正しい気もするが、それでも何か一言求められたら、「甘えるな」「気合いが足りない」と言いたくはならないか。

 

なぜ行くところまで行かない分からない人間がいるのかというと、「先延ばし」に対する過小評価が原因だ。古代ギリシア哲学、聖書やクルアーン、仏典、儒教のテキストに至るまで、人類の智慧とされる書物には「先延ばしは悪」と書かれている。狩猟生活から農耕に移行し、いついつまでにこれくらいの作物を作る、という「締切」が誕生してから、人類は先延ばしの問題と格闘することになる。

集団的な先延ばし、つまり怠けは、社会の崩壊を招く。これはそのまま社会主義批判の論理の一つになりうるし、旧ソ連は崩壊している。

では、先延ばしに対する過小評価の原因は何か。これは以前にも記事で書いたとおり、衝動性と関係しているらしいことが心理学の実験から明らかになっている(後述の書籍を参照して頂きたい)。

衝動性が高い人間は、現在眼の前にぶら下がる楽な道を選ぶ。即座に快楽を得られる選択肢に弱い。多くの場合、その先には浪費や暴飲暴食、もっと大げさに言うと、薬物依存や性犯罪といった破滅の道が待ち構えている。

これを無くすために、心理学者は膨大な時間を研究に費やしてきた。

楽観視の後に現在の障壁を思い起こさせ、未来への前向きな想像力と現実を見ることのバランスを保つ「心理対比」、先述した極小の課題を達成することによって自己効力感を上げるテクニックや、極小の目標を達成しないことを目標にしてしまい、達成してしまうことを行動のスタートブーストにする「逆説計画」など。

これらのテクニックは、ある程度の高い衝動性しか持っていないならば効果的かもしれない。しかし、先延ばしグセが猛烈に強い人間につける薬は存在しない。

強い衝動性をもつ人間に、テクニックは無意味である。なぜなら、テクニックを実践することそのものを先延ばしにするからだ。

先延ばしと衝動性について書いている『ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか』を参照しても、重症者に対する処方箋は以下の通りだ。

●理由をつけて計画の実行を後回しにして、困った事態を招いた経験がこれまで何度あったかを思い返す。日記をつけて、自分の先延ばし行動を記録にとどめる。

●自分の最大の弱点が意志の弱さだと認識する。意志の弱さゆえに、「今度だけ」と言い訳して先延ばしをする可能性が高いと理解しておく。

●一度でも先延ばしをすれば、その後もずるずると自分に先延ばしを許すことになると認識する。はじめに先延ばしをすれば、いつまでも最初の一歩を踏み出さないまま終わる可能性が大幅に高まるのだ。

要点をまとめると、

1.先延ばしグセを、可視化して自覚する
2.一度でも先延ばしをするとまたするので、もうしないと決意する

という事なりそうだ。これはまさしく、「気合い」の論理である。

 

追い詰められた状態と分かっていながら「気合い」が持てない、あるいは衝動に抗えないとなると、何らかの精神疾患や精神・発達障害などが疑われ、投薬などの医療行為が必要になる場合があるかもしれない。

また、そうした治療の過程にあっても、服薬習慣を先延ばしにする危険性がある場合は、第三者の介入が必要となる。今度はその人物に従うか、否かという問題が出てくる。きりがない。どこかで「気合い」を出さなければ、課題は解決しない。

程度の問題もあるかもしれないが、精神的な病気にあっても「気合い」は必要だ。

 

「気合い」が出せず、医療の支援が受けられない場合、先延ばし人間は破滅のループに陥る。僕の例を見てみよう。ここからはさらに、主観的な話になる。

運動したくないし、食事も改善しようとおもってもできない、でも運動や食事改善をしないと病気になる、でも病気にはなりたくない……と普通ならここで、運動や食生活の改善が選ばれる。どんなに小さなことからでもいいから黙って改善しようとする。

しかし先延ばし人間は先程も書いたとおり、考えをループさせる。1番初めの、運動や食事改善をしたくないに戻る。

どんなに小さな改善策があったとしても、不思議なことに、やる気になれない。やれば改善の道が開かれるのだから、やれ!やらないと死ぬぞ!と頭の中で声がするのだが、身体はベットに沈んだままだ。

 

こうしたループに陥るので、自罰的な人間であるほど、このストレスは大きい。

「理屈の上では分かっているのに身体や心が動かず、それを動かそうという努力をしている、あるいはしているつもりになっているが、変化できないので自己叱責をする」という繰り返しをする。

先延ばしをすると抱える問題もどんどん大きくなるので、それに合わせて自己叱責のレベルも大きくなっていく。

精神科医名越康文氏は、うつ病を「自律神経系の異常により、緊張もリラックスもできない状態」と説明している。物事の改善のためには、えいや!と緊張を生み出す必要がある。それができないのであれば、諦めるというリラックスの道がある。しかしそのどちらも選択できず、思考の中でループしている。

傍から見るとアホでしかないのかもしれないが、こういう思考が、急な下痢のように止まらない。

 

ただ、そんな状態を言い訳がましく嘆いたところで現状はどんどん悪くなる。結局、あらゆる行動には、最終的には「気合い」が必要なのだ。それを出すために、今日もSNRIを飲む。

知識を得て、視野が広くなろうが、最終的には「やるか、やらないか」という問題が依然として残る。

何か行動をする場合、間違いなく「気合い」は必要だ。

 

<それでもテクニックをあきらめたくない人へ>

 

小さな習慣

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小さなダイエットの習慣

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