点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

読書は高尚なことではない──クソ読書のすすめ

「クソ読書」をはじめてみましょう。

クソ読書はだれでも簡単にできる読書法です。

クソ読書とは、「真面目に本を読んでいる人からしたら、その読み方はクソだ!と罵られるような読み方一般」の事です。

クソ読書を会得する事で、あなたの読書効率は数百倍になることなんてありませんし、読書の習慣がつくかどうかも分かりませんし、仕事の生産性が上がる可能性も極めて低いのです。

「読書のハードルが下がった!」というお声を極稀に頂いております(なお、のべ人数3人)

クソ読書は「真面目に本を読んでいる人からしたら、その読み方はクソだ!と罵られるような読み方」であれば、どんな読み方でも構いません。

というか、そもそも、正しい読書とは一体何なのでしょうか?

誰が定義できるのでしょうか。

この世に唯一絶対の正しいものなど存在しません。読書というもののイメージが持つ真面目腐った態度は、暗黙の了解として読書界に悠然と横たわっていますが、結局はそれはひとつの態度に過ぎません。読書は主観的な営みです。体験なのです。多くの人間に適応可能な効率の良いインプット方法など参考にしても、必ず漏れが出ます。向き不向きが出てきてしまいますね。

こうした点から、本来ならば、一人一人にあった読書スタイルを追求して良いはずなのに、なぜか本の初めから最後まで読まないといけなかったり、理解しなければ次の文章を読んではいけないというようなよく分からん制約を、誰に言われることもないのに設けてしまい、読書を遠ざけてしまうのです。

それを回避するのが、クソ読書という視点です。クソでも良いから、自分にあった読み方で良いよ、とりあえず本読んでみようよ、楽しいよというものです。

1文読んで読書をやめる、オチから読む、本を手に取って装丁をながめて読んだ気になってみる、目次だけ読んで本を閉じる、著者の経歴から本の中身を想像する、本に落書きをする、イチャモンばかり付ける、眠れない夜に岩波文庫など難しくて訳分からん内容のものをあえて読んで寝落ちする、トイレでしか本を読まない(これは正真正銘クソ読書であり、奥義であります)、名詞が出てきたら全てうんこに変換してみる、などなど……。

読書とは自由なものです。こういうクソみたいな読み方をした後でも、堂々と本について語っても良い。クソ書評です。クソ読書で読んだ本の書評やコメントは、並の書評よりもクソになる可能性はありますが、独自性が生まれてくるかもしれません。

舟を編む?読んだ読んだ。オチしか読んでないけどね。でさ、なんとなくこんな話かなーみたいな想像したんだけど、○○みたいな感じで合ってる?」

という具合に、人とは違った切り口で本について語ることができる可能性を秘めています。

そもそも、読書なんて大したことありません。高尚なものじゃないです。

もちろん奥深いことですから、どのレベルで読むのか?ということで「難易度」は変わります。ただ、「ありがたみ」はどういう目的の読書だろうが、どういう難易度であろうが、感じる必要はありません。本を読んだだけで偉そうにする人がいますが、その人は他人の頭の中を覗いただけで偉そうにしているのです。なんと滑稽か!

今月は30冊も読んでしまいました!とか、1日あたり読書には何時間も使っています!とか言ってドヤ顔している人たちには、好きなだけドヤらせておきましょう。知的活動には最低限これくらいは必要~とかいう意見も無視しましょう。そういうのとは無縁に、自分の読書体験というものを大切にして頂きたいのです。

「自分は頭が悪いから本なんて読まないよ」とか、「時間がないから本なんて読まないよ!」と謎のハードルを設けたりして、読書から遠ざかってしまうのはもったいない。本の世界は、パズドラやモンストよりも時間が潰れるし、刺激的な世界が広がっているんです。脳死がしたいんだ!という要望にも、読書は答えます。荒唐無稽な世界を提供してくれる小説は数多く存在します。

驚異の識字率をほこる日本では、大半の人が文字を読むことができます。おかげで読書というのは、こと日本においては、万人に開かれた娯楽と言えます。Youtubeニコニコ動画スマホやネットが必要です。そんなものが無くても、図書館に行けばこんなにも楽しいメディアが、それこそ膨大な数存在するのです。

この記事が、他人の目線を気にせず、「こんな読み方っておかしいかな~」とも思わず、どんどん本にふれるきっかけになってくれたら嬉しいです。

これにでも埋もれながら、本読みてえなぁ~~!!