点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

日記-20190408 4:59

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左側には文庫がつまれ、中央には白紙のはてなブログ編集画面、その前には「なんでもノート」と何かと知をゴリ押しする佐藤優の本がある。

 薄暗い空間で作業をするのが好きになってしまった。昔は漫画喫茶の薄暗さが苦手で、殆ど利用していなかったのだけど、今では自宅が漫画喫茶のような閉塞感と薄暗さによって支配されている。薄暗さというのは一種の安心感を与えてくれるのは何故だろうか。ブルーライトガンガンのLEDデスクライトの明かりが、僕の眼に飛び込んできて、写真よりも明るく感じているからだろうか。

 左側の文庫は、『文庫-LOG』で紹介しようか迷っているもの達をただ積み上げているだけで、たまに読んだりしているけれど、やっぱりどうしようかなという状態で、レジュメもなにも作っていない。

 今ひとつ嘘をついた。書評を書く時、レジュメも作らないし、大概は図書館で借りてくるものが面白くてレビューすることの方が多いので、ページも折れない。付箋はビラビラしたのがなんだか視界に気持ち悪いので性に合わないし、書抜は単純に面倒くさくて、どうしてもこの部分だけは引用にいれたいという箇所だけ、この中央にある「なんでもノート」に書く。

なんでもノートは本当に何でも書く。明日の予定から鬱屈した思いまで、何でも書いてしまう。そこに、どうしても引用したい部分は、「何ページの何行眼から何行目までを引用」とだけ書いて、実際にははてブロを編集するときにその部分を開いて使う。

 『知の教室 教養は最強の武器である』というタイトルの佐藤優著の本が、この雑に取った写真の中でひときわ目立つ。人は「眼」に対して注意を払う生き物である、というのをどっかのだれかが言っていたか、何かの本で書かれていた。これは教養のない人間の発言特有のものである。会話の中ではまだセーフだが、書き物の場合は、これが許されない。教養のない人間は、出典や引用を繰り出すことができないから、説得に権威性を出せない。

 そして、いくら正しい情報であったとしても、「テレビで言ってた」というと、教養を標榜する人たちやテレビを捨てろという人たちからは大抵「最弱の猿である」と内心思われている。と、僕は睨んでいる。

 「教養は最強の武器である」とは、もちろん佐藤優氏も思っていないだろう。彼の著作には「インテリジェンスの世界では」という前提が付くことが多い。当たり前である。インテリジェンスの世界から外れてしまえば教養など信仰心のないものが唱えるマントラと同じだ。ヤンキーに絡まれた時に、「君たちには教養が無いが俺にはある。塩野七生著『ローマ人の物語』について語ろうじゃいか。では、「パクス・ロマーナ」とはなんだったのか……」とか言っているうちに喧嘩殺法でボコボコにされるのである。

 これはジャッキー・チェンが「そばにある椅子が最強の武器である」と言っているようなものである。ジャッキーが椅子を持てば、見事な椅子捌きでみるみる敵がなぎ倒されていく。ジャッキーは椅子を持つことで最強になるというのは、ジャッキーファンの定説である。が、ジャッキーは「そばにある椅子が最強」などとは思っていない。虚構の世界だからである。

 佐藤優を動かしている出版社も同じだ。「教養を持つものが強い」という虚構を描き、教養なき者をこちらに手繰り寄せて、信者にするか、実力がわかった段階で、人気論客にコテンパンにさせる。あるいは、真に実力のあるものを引き出して、既存の論客を失脚させるのだ。論壇も芸能人と同じで流行り廃りがあるから、人気の持続には「教養ならまかせろ!」とふかした井の中の蛙、もしくは教養を磨くことを決意した情弱サラリーマンが必要なのである。

 あと、最強の武器は、どうかんがえても「核兵器」だ。これを巡ってインテリジェンス達が奔走し、牽制しあっている状態なんじゃないのか。

 僕、ははは……お前バカだなあ、核兵器ってのは簡単に発射ボタンポチーできないんだよ。だからインテリジェンスの世界、つまり知の武装が必要なんじゃないか。

 という意見もあるだろうけれど、じゃあそっちでやってくれという思いしか無い。ビジネスパーソンに対してインテリジェンス向けの話をされても困る。企業に勤めている人の関心といのは自社企業の利益最大化ですら無いのだ。自分や家族のことで精一杯なのに、「カラマーゾフの兄弟を読破してやる!」なんて思う人が現れにくいのが当たり前で、インテリジェンスの世界でバカにされるかされないかなんて、気にもとめないのだ。

 結果が大事だ!プロセスなんて他人からはわからないんだから!という教養人もいる。しかし教養ある意見というのは、ある結論を導く道筋が、過去の確からしい情報をどれほど元にして考えているかというプロセス重視の考え方だ。インテリジェンス以外の世界で生きる人は、翌日のおまんまを食うためのプロセスに、「フィヒテは、カントとヘーゲルをつなぐドイツ古典哲学の正統的な観念論哲学者だ(p.162)」という知識は、絶対に必要無いのである。

 ちなみに、「なんでもノート」は佐藤優氏の『読書の技法』より拝借したアイディアであり、非常に重宝している。佐藤優氏によるハウツー本には殆ど書いてあるテクニックなので、僕以外にも真似している人は多いと聞く。これからもノート1冊に全部まとめることになるだろう。

ありがとう佐藤優。『うつを治す方法論としての「知の教室」』とか出して欲しい。絶対買うから。