点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

文庫-LOGを始めたせいで、こっちで書評する時間が無くなったし、書評って難しいねって話

 どうしよう。こっちで書評する時間が無い。同じ内容をコピペしちまえ!という腐れ大学生的発想が眼の前にぶら下がっているほど、こちらで書評をする時間が無い。単なる日記というか、そういうブログに成り果てようとしている。実は書評よりも、雑記のほうがいいね!がつく確立が高くて書評割に合わんな~とか思っているのはここだけの話にして欲しい。ここだけの話といっても、ここが全体だった。意味ない。

 「クソ読書」(僕考案の読書法。既存の読書術からしてみれば舐め腐った態度で本と向き合うクソみてーな読書の意)から繰り出される書評は「クソ書評」である。

 『文庫-LOG』はそんなクソ書評のはきだめ的存在になろうとしている。大いに結構だ。そもそも読み方なんてこだわったところで「人それぞれ問題」が発動するのが読書という世界だ。「より良い書評」という正解パターンは、あるようで無い。逆に言えば星の数ほどある。そんなもんに向き合ってあーだこーだ考えるより、自分の感覚や考え方をブリッとひり出したほうが、その人特有の味が出てよろしい。と自分に言い聞かせながら書評をしている。

 当ブログでちょっといじっちゃった、佐藤優の『知の教室 教養は最強の武器である』を9冊目の文庫-LOGとして書いた。

 本をいじるとき、どこまでいじっていいか分からない。これは人間と似ている。いじり、いじられというのは信頼関係があってこそ成り立つコミュニケーションであるが、基本的に書評をする僕と著者というのは僕の片思いである。変にいじりすぎた結果、作家のファンや著者から嫌われるのはいやーん。面倒くさい。

 また、否定的書評というのは、多くの場合「単なる揚げ足取り」「読み込み不足」「知識不足」という「お前のせいトライアングル」から成り立つ場合が多い。この3つを打破するには、その著作と同じ文量の反証論文を書かねばならないと考えている。本気でその本が社会に出回っていることを良しとしないならば、Twitterなんぞで呟くのではなく、本を出版するべきだ。

 部分的な記述の誤りや論理の破綻、矛盾、予測ハズレなどは名著と呼ばれるものにも存在する。『資本論』などはその例としてよく挙げられてしまう。資本主義は崩壊するという予言は外れたけれども、しかし、資本主義の構造解明とその問題点をバチコン指摘したという部分で評価され、今なお読みつがれている。つまり、一部分だけくり抜いて批判するのもよろしいけれど、書籍全体を通してどうであったのか、まで書かなければフェアではない。

 僕にはそんな根気が無いので、普通に内容が面白かった本を紹介している。プライド?無い無い。クソ読書とか言っているやつにそんなのがあったら問題だ。

 オススメ書評というのは、もう僕以外の誰かがゴリゴリやっているので、なんかこう、差別化したいなとか思わなくもない。しかし上記理由から、結局は内容に感銘を受けた本に対して、ペッコリ45度、リコッペ、どうもAchelouです。おや!あんなところにキラリと光る素敵な本が!素敵な本まで、1歩、2歩、3歩目からごますり男「この本めっちゃ良かったです!!」になっちゃうわけだ。

 なぜ飯尾風に言ったか。飯尾和樹さんは人間国宝に認定されるべきと思っているからに他ならない。彼のギャグは至高である。僭越ながら、拝借させていただいた。

 話がそれた。話がそれている間に、『文庫-LOG』始めたからこっちで書評ができないという前提で話を勧めていたことは、誤りではないか?という疑問がでてきた。ちょっと違うかもしれない。

 少し前のエントリで、点の記録における書評ポリシーを「選書は硬く、書評は柔らかく」と決めた。多分そのせいだ。硬い本、つまり僕が背伸びをしないと理解し得ない本を扱うと決めてしまってから、なかなか本の紹介ができていない。

 こちらで書評するには、もう少し時間がかかりそうだ。

 最後に一言。飯尾和樹人間国宝