点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

僕に数学を教えて

 

数学入門〈上〉 (岩波新書)

数学入門〈上〉 (岩波新書)

 

 

過去、数学が苦手だという記事を書いた。『はたらく数学』という書籍についての記事で、自分がどれほど数学が苦手かということを書いた。Achelouはこの記事執筆を通して自己の数学苦手を反省し、いまごろ自在に数式を理解し、読書の幅と論理的思考能力を向上させ、より面白い人間になっているのだろう、あるいは理屈っぽい理系の男としての人生を歩んでいまいか?と心配をする人もいるかもしれないが、相変わらず数学が苦手な人間としてこの世界に存在している。

 

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まったく歴史に興味がない自分が、E.H.カー著の『歴史とは何か』という本を読んで歴史を学ぶことを覚えたように、数学を研究している人、はたまた、数学が好きな人の意見というのを賜りたい。自分で感じなければ意味がない、と言われるかもしれない。作家の佐藤優さんは、数学は「テクネー」であると自著の中で語っている。実際に手を動かして問題を解決するということをしなければ身につかないという。

数学の場合は演繹的な思考をする社会科学とは打って変わって、帰納的な思考を必要とする学問だ。個別に見られる現象から、いかに法則性を見出すか?という営みが基本ととなる、と聞いたことが有る。そして抽象化の学問でもある。文章で説明すると、時間がいくらあっても足りないものを数と式によってサっと表してしまう。数学は論理的思考が身につくと言われているけれど、実は一番恩恵があるのって、この抽象化と帰納法的な思考が養われるということなのではないかと、数学まったくダメな人間からすると思うわけです。

 

数学入門〈下〉 (岩波新書 青版 396)

数学入門〈下〉 (岩波新書 青版 396)

 

 

よく限定合理性なんて言葉が使われる。人間の思考能力はすべて論理ずくであり、すべて合理的に判断されている……ということではない。少し前に注目を浴びたダニエル・カールマン著『ファスト&スロー』が詳しく書いていることだ。数学をやって、たとえ論理的思考が身についたとしても、ヒューリスティックな判断によって、不合理な決断を取るのが人間である。だから、数学をやったからといって、合理的判断が身につくかというのは甚だ疑問だ。ではなぜAchelouは数学を会得したいか?

答えは至極シンプルで、読める本の量の本を増やしたいから。数学の論理が前提になった本はたくさんある。数学を使いたくないから文系の学部に入ったものの、社会学研究の根拠となるデータの解析には統計学が必要であった。この頃から嫌な予感がし始める。意識高い系になった頃は経済学の本を読み始めるが、文系科目だと思ったらまさかの理系知識バンバンに使わなければならないと知る。

そこでAchelouは悔やむのだ。「あぁ、社会に出てから数学なんて使わない」という親の言葉と、それに甘えた自分が悔しい!世の中の読み物一般という広範囲に数学は横たわっている。苦手意識からそういう本をしっかり読んでいないということは知識に偏りができるということだ。できれば改善したい!と思っている。

 

人物で語る数学入門 (岩波新書)

人物で語る数学入門 (岩波新書)

 

 

もうひとつご利益にあやかりたいことがある。これは僕の素養や、地頭の良さにも関わってくるから、必ずしも手に入れられるものでもないけれども、魅力的である。「カオスから秩序を読み取る力」だったり、楽器がひける人が楽譜を読むように、「ひとつの情報量たっぷりな記号から情報を読み取り、記号で思考し、操って、運用ルールの中で自分の考えを表明する」という力というのは、論理的思考以上に価値のあることだと思う。バラバラになったピースから共通項や法則を見出し、「それってつまり、こういうことだよね」という一つ上の視点から物事を俯瞰して理解できるようになるかもしれない。

多くの本をガガーっと読むと、自分の中に大量の情報が入ってきて、それらが互いに反応し合うときと、そうで無い時がある。反応しあうと、「そうか、あれとそれは同じこと言ってるな!」という具合にスッキリする。そんなことは1年間読書週間を続けてきて5回あるかないかくらい。いかに自分が無知であるかという自覚と劣等感の戦いの日々でありんす。

 

 

きっと数学が得意な人たちは図形の問題が解けてスッキリ!という感覚を味わったことが何度もあると思う。僕なんかは図形問題が苦手中の苦手だったので、食い入るようにどこに補助線が引けるかとか、どの角とどの角が一緒か?というのを見てしまっているけれど、数学が得意な人の中には「感覚で分かる」とか言う人がいる。俯瞰して見ていることで、ああ!これはあの公式だな!とか、ここに線を一本引けば問題解けそう!とか、そういう能力が備わるのだ。

数学を理解するということはそういうことなんじゃないか?と理系に憧れをもつ文系人間からすると思う。この数学に対する考え方、間違えているならどうぞ容赦なく叩き切っていただきたい。ただし、その際はあなたが思う「数学はこういう魅力がある」という一文を添えて頂きたい。コメント欄でもいいし、シェア先のSNSでも良い。こんな大それた内容の記事を書いておいて、今一歩数学モードになりきれない自分が腹立たしいのだけれど、もしご教授いただける心お優しい方がいらっしゃるのであれば、ぜひとも、何卒、よろしくお願いします。

 

achelou.hatenablog.com

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昭和元禄落語心中──落語の入り口は漫画でもアニメでもいい

 

昭和元禄落語心中(1) (ITANコミックス)

昭和元禄落語心中(1) (ITANコミックス)

 

落語を初めて聞いたのは確か小学生の頃。オンボロ小学校の体育館の中だった。気だるそうな教頭先生の紹介で「それではどうぞ~」なんて紹介されながら、立派な羽織を着たおっさんとおばさんが、体育館に備え付けられた舞台に姿をあらわす。これがまあ、つまらないのなんの。小学生の頃の落語体験は、体育座りで足がしびれたという程度にしか記憶に残らなかった。唯一面白かったのは「紙切り」と呼ばれるもので、ハサミを使って巧みに形をつくる芸。ワンピースのゴーイングメリー号とルフィを形作ってみせた。周囲の同級生も、ここでは大笑いしていた。

落語って面白いかも?と思ったのは高校生の頃、指定管理者制度によって民間化されてしまった演芸ホールで見たものだ。あれは何の話だったか覚えている。古典落語の転失気(てんしき)だ。

あらすじをざっくり。

体調不良の和尚が医者にかかった。「"てんしき"は無いか?」と尋ねられたとき、知りもしないのにその場を取り繕う。和尚は寺に戻って小僧を呼び、「"てんしき"を知っているか?」と尋ねると知らないというので、和尚は威厳を守ろうと「"てんしき"を今すぐに教えてやってはお前のためにならん。町内でてんしきを借りてこい」と知ったぶりで小僧に命じる。

苦心して探すも"てんしき"なんて見つからず、困った末にたどり着いた和尚を診断した医者にたどり着くと、「屁のことである。胃腸の調子を見るために聞いたのだ」という。和尚が何も知らないまま自分をこき使っていたということを悟った小僧は、和尚に仕返しをしようとする……続きは下の動画でどうぞ。

今をときめく柳家喬太郎の転失気がありました。

www.youtube.com

 これが実に楽しい落語体験だった。それで、それなりにハマった。ハマったと言ってもどっぷりハマったというほどのものではない。YouTubeニコニコ動画が盛んになってきていたころで、気分がすぐれないときとか、なんだか具合が悪いというようなとき、ちょっとした気付けとしていたのが落語だった。同級生にバレたら、ただでさえ「老けキャラ」であったのが更に拍車がかかってしまうのが恐ろしいという、器がどうしようもなく小さな理由で秘匿にしていた。

やい!さっきから読んでりゃ、昭和元禄落語心中の話のひとっつも出てきやしねぇじゃねぇかよ!

ごめんね、そろそろするね。

 落語プチブームを高校生で体感し、大学2年の夏ごろまで聞いていたような気がしますが、そこからバイトと学業の両立をしなければならなくなって、空いた時間には勉強もせずにぼーっと過ごしておりました。落語なんて長ったらしいものを聞く体力なんてねーやい!といった具合でめっきり聞かなくなってしまった。

ところがこの昭和元禄落語心中という漫画を彼女さんが持ってきてくれた。これが面白かった。いまじゃこの作品がきっかけで落語をもう一度聞くようになって、誰にも内緒で寄席にも行っちゃった。

作者の雲田はるこさんは売れっ子のBL漫画家ですが、この話にはBL要素は欠片もございません。男子同士のくんずほぐれつを警戒していらっしゃる方々は安心して読んでみてほしい。作者のファンも、落語のファンも読んでみればいいし、今絶賛アニメ放映中なので漫画がどうにもダメだって人はアニメでもいい。アマゾンプライム会員ならそっちでも見れます。

主人公は元ヤクザの下っ端の与太郎。多分本名じゃないけど与太郎。物語はこいつが刑務所から出所するところから始まる。刑務所内の落語会で見た昭和最後の大名人八雲の芸に惚れ、出所したその足で弟子入り志願をする。弟子を取らないと有名だった八雲だが何を思ったか道端で急に出会った刑務所帰りの男を広い、自分の弟子にしてしまう。最初はダメダメだった主人公与太郎が、かつての名人助六のエッセンスを取り入れ頭角をあらわすようになると、八雲は同じ師匠のもとで切磋琢磨した助六と弟子を重ねてうんぬん。要は落語を装置とした友情人情人間ドラマです。

この作品を読むにあたっては、死神という演目が全編に渡ってキーワードになっているので一度YouTubeなどで見ていると、漫画の中の八雲がより一層輝いて見えるのでオススメ。全10館完結済み。長くなりそうな話をぎゅぎゅっとまとめた手腕に感激。小説でもなんでもそうだけど、話が長けりゃ良いってもんじゃないのに、人気なものほどながーくなる傾向にあるのは本当にどうなんですかね。

ちょっと前に注目された『じょしらく』とは比べ物にならないくらい、ガチの落語ドラマですからご安心めされよ。こういうところから落語に興味を持った人が増えてくれれば、地元の所属している親子劇場で「何を見せるか?」というときに、「落語なんてどうすかねぇ!!」と声を大にして言えるので、若い子も奥様方も読もう!仕事に疲れたサラリーマンはすっ飛ばして落語を見てからこの作品を読もう。いやいや見方なんて人それぞれ。でも落語に興味もってくれたらそれでいい。

転失気に出て来る和尚ばりに偉そうなことを言って申し訳ないが、日本の文化、知らにゃ損です。入り口は至る所にありますが、まずは漫画やアニメから入っちゃうのもアリじゃないかな。

 

 

achelou.hatenablog.com

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歴史とは何か──「対話する」ことの重要さを再認識する

 

歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

 

 歴史の授業はつまらなかった。中学高校ともに歴史についてどのように向き合えばよいのかわからなかった。自分の興味関心に手繰り寄せることができなかった、というよりも、興味関心を持とうとすら思わなかったのだ。ところが、読書をし始めると、思いのほか歴史の知識というものは必要であることが分かってくる。歴史の知識の欠損は、実は読書好きにとって致命傷だったのだ。

ここ数年の間に、自分の中で歴史というものの重要度が変わった、のにも関わらず、手に取る本から読み取れる情報は、心の底からの楽しさを与えてくれるようなものではなかった。読んでいると眠くなってくるし、覚えようと思っていても大筋だけ追って細かなところまでを性格に把握できていない。どうにもこうにも、歴史の面白さが理解できない。

そこで、まず歴史の魅力について探る必要があると考えた僕は、歴史が好きで好きで仕方がない人の意見を聞くのが良いと考え、本書を手に取った。そのものズバリ『歴史とは何か』。本書を手にできて本当に良かったと思ってます。

著者のE.H. カーはイギリスの歴史家だ。ケンブリッジ大学入学後はロシア革命史の研究にどっぷり浸かった彼は、歴史家としてだけでなく政治学者としても著名である。ユートピア思想に対して批判的な立場で著された『危機の二十年――理想と現実』という本でも有名だ。

本書の構成としては「歴史とは何か」という問いに対して、著者が過去の歴史家の発言や歴史を見る態度に対して批判的な立場を取りつつ、これからの歴史について語っていく。序盤ではまさしく著者の歴史哲学を語り、中盤では歴史はいかに科学的であるかを語り、終盤ではこれからの歴史学者に宛てた歴史の捉え方が語られる。本書40pには、著者の歴史観を端的に説明した一文があり、この文章はこれ以降の歴史哲学を扱った書物の多くに引用されていると言う。

「歴史とは何か」に対する私の最初のお答を申し上げることにいたしましょう。歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。

歴史というものを漠然と捉えていた自分にとって、この意見はすごく新鮮だ。「歴史とは過去の事実の集積である 」という漠然としたイメージがあった。この記事を読んでいる歴史に全く興味のない人は、僕と同じように歴史を捉えている人も多いと思う。少し考えれば分かることだけれど、「過去の事実」とはいささか怪しいものである。

歴史を研究し、分析する歴史家によって、「事実」にはおおきなゆらぎが生じるものである。ここがまさしく、「歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程」と著者が述べる部分である。唯一絶対の客観性などなく、歴史を学び研究するということは、過去から現在までの歴史家との対話であるという。

この視点を持っているだけで、多くの歴史書物の見方が大きく変わるような気がしませんか。歴史の本を読んだことある人のなかで、どこか押し付けがましいな~とか、主観が入り込みすぎているな~など思って、読むのをやめてしまったことがありませんか。それが過ぎるのは問題があるけれど、著者の主観が必ず入るものだ、と考えただけで、一気に興味が湧いてくる。必ずしもそうではないけれど、その本の構成や文体、事実を描く際のダイナミズムは著者の思想のダイナミズムと直結することがある。読書好きにとって興味があるのはここであるので、この視点を忘れかけていた自分としては、回復できたことを嬉しく思う。

よく「読書とは著者との対話である」といわれる。この言葉を聞くたび、何を偉そうにと思う人もいるかもしれないけれど、これこそがあらゆる読書において真髄であり、醍醐味である。歴史も例外ではない。というか、本書を読めば、歴史こそこの感覚が大事になってくるのだと感じさせられる。

もういちど読む山川世界史

もういちど読む山川世界史

 

事実の羅列がされている書物はどうか?例えば教科書。

対話のしようがないと思ったら一気に味気ないものになってしまうが、こう考えてみるのはどうか。歴史の教科書を例にとって考えてみる。初学者に分かりやすい文章かつ、検定を通すための文章であり、受験勉強に必要な知識であり、しかし歴史そのものに、どうにか興味を持ってもらおうという工夫がそこかしこに見受けられる。

教科書の情報の羅列のような文章であっても、複数の著者、出版社、国など、おおよそ4~6つの視点から書かれていることになり、読者はこのおおよそ4~6者の視点と事実との間の相互作用の不断の過程を読むことになる。なぜこのような書き方、本の構成に至ったのか?という興味の持ち方で教科書を読むことで、教科書に対する意識が変わってくる。

唯一絶対の歴史というものはこの世に存在しない。しかし学問として成立する上で客観性や再現性は必要不可欠であると考えられている中で、歴史の客観性を主張しなければ歴史学は科学としての価値を失う。著者が考える歴史の客観性とは何か?これがロマンチックというか、壮大でいいなと思う。

歴史が過去と未来との間に一貫した関係を打ち樹てる時にのみ、歴史は意味と客観性とを持つことになるのです。(p.194)

 歴史における客観性とは物理学や化学などに見られる揺るぎない(と思われている)判断基準に基づいているものではない。歴史とは何か?という問に対する著者の答えをここに当てはめると、分かりやすくなると思う。

「歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」という営みが、過去と未来との間に一貫した関係を打ち樹てる時にのみ、そうした営みに客観性が生まれてくる。

人文科学系や社会科学系の人たちは、自分が心血注いでいる学問の客観性を疑われがちだが、本書はそうして自信喪失している人にとって、精神的カンフル剤の役割を果たしながら、歴史って面白いかもしれないと一般読者に思わせるいい本だと思う。歴史なんて面白くないなと思っている人に是非読んでもらいたい。

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