点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

汁気のない文章から脱出したいのだけれども

FUJI ROCKの記事のときはあんなに生き生きしていたのに、書籍関係になると、途端に僕の文章は、セミの抜け殻、干からびたミミズ、轢かれたアリ、腐った魚のようなものになるのは、一体どういうことなんでしょうね。

「血の通っている文章を書け!」とかなんとか言いますけれども、それは、なんだか一生懸命過ぎて空回りしている感じがして、自分で書こうとは思えません。

かといって、なんだかドライな風貌でもって、「この本のここがオススメです」なんて言われても、正直クスリとも来ないわけです。心にぐさりと来ません。

 

僕の文章に足りないものは何なのか、ということを考えない日はありません。

ごめん。なんか、多分3日に1回はぼーっと過ごしているので、そのときは考えてないけど、うん。でも、結構考えます。何が足りないのか。

それはおそらく、「にじみ出るもの」ではないのか。

 

僕の身体はこんなにも脂肪を蓄え、エアコンの調整温度を24度に設定してもなお脇汗をかき、コショウ、タバスコ、ガラムマサラなどのスパイスが食べ物に入れば、まるで一昔まえに流行ったアイス・バケツ・チャレンジでもして、そのままウチに来たのかい?と店員に疑われるほどの滝汗をにじませるというよりも噴きだせるにも関わらず、いざ文章を書こうということになると、その文章には汁気が無いのであります。

旨味が無いのであります。

 

一体なぜでしょうか。汗と一緒に文章の旨味成分が逃げてしまっているのでしょうか。

そんな意味のない空想的妄想的言い訳をしている暇があるのであれば、1個でも2個でも真面目に文章を書いていけ!なんて、意識高い系のブロガーなんかに、指摘されたりでもできりゃあいいんですけれども。

あいにく意識高い系とは、はるか昔に縁を切り、新しく向こう側からやってきても、持ち前の意識の低さでもって、一刀両断のブロック、あるいは無視、最終手段の違反報告(暴力的な表現を理由とする。意志の押しつけは死罪に値する暴力であり、現在の道徳教育も同様に打首獄門である)などで、一網打尽にする生活を送っきてしまってからに、全くと言っていいほど、そういう知り合いがおりません。

 

僕の尊敬するブロガーさんの文章を見るにつけ、嗚呼……この人の文章には、「命」がある、「色気」がある、「粋」がある、「風流」があるなど、知ったかぶって勝手にラベリングをする毎日。

極めつけは、メンタリストDaiGo氏をとある記事で否定しながらも、氏が推薦していたという理由だけで図書館から借りた『ザ・コピーライティング』を隠れてこっそり読み、その教訓どおりにタイトルを付けた記事なんかよりも、限界オタクさながらのライブレポ記事のほうが圧倒的に読まれるという事態に。

まんまとDaiGo氏のメンタイリズムなる明太子大好き宗教とジョン・ケープルズとか言うコピーライターのコピーライティングに騙されたという羞恥心と共に、やはり「この世に真理なんてないのだ」と悟るに至ったわけであります。

 

真理とは「間違いのないこと」でありますが、間違いの無いことなんて、この世にはございません。小学生でも知っていることです。

例えば、1+1=2は真理でしょうか。小学生の彼らからすると、1+1=2は一方で正解ですが、多くの可能性において、それは誤りです。彼らからすると、1+1はときに「田」でもあり得るのです。

小学生は、系を横断する思考が可能なのに、大人になった僕には、なぜできないのですか。これほど不平等なことがあってよいものですか。

 

人間は成長するにつれ、身体や欲求や虚栄心が大きくなるばかりで、肝心な知恵が後退するようにプログラミングされたのではないかと、疑わざるを得ません。

もしそうでないなら、あらゆる政治的、経済的、宗教的諸問題は解決しているはずなのに、政治的飢餓が存在し、経済格差が生まれ、痛ましいテロ事件が世界中で乱発しています。その多くは大人による犯行であります。大人になると知恵が後退するという私の持論の、何よりの証左であります。

 

ところで、そうは言うがね、じゃあ山﨑よ、キミは子ども時代から現在にいたるまで、今まで一度でも横断的というか、自由というか、縦横無尽の思考というものを、したことがあるのか、という問いを投げかけられると、これは怪しいのです。

小学2年生のときに考案した「自転車型タイムマシン」は、完全にバック・トゥ・ザ・フューチャーの「デロリアン号」のパクリでありました。

僕の考案したものの中で一番荒唐無稽であるはずの自転車型タイムマシンは、時速140kmに到達すると、稲妻の閃光を伴いながら、時空を旅することができるのですが、これは「自転車型タイムマシン」という言葉に、「デロリアン」を代入すると、そのまま、バック・トゥ・ザ・フューチャーデロリアン号の設定になるのです。

なんたることでしょう。全く貧弱な想像力ほど嘆かわしいものはありません。

 

友人の影響を受けて漫画を描き、音楽を作り、読書にふけり、生まれてこのかた、自分のオリジナルな欲求にしたがってしてきたことといえば、本当に、マジで、ガチで、平沢進氏の音楽を聴き始めたこと以外に無いかもしれません。

そのように考えると、至極納得ができる。

なるほど。

能動的な選択によって得られたものほど、汁気が出る。

読んでくれる人も楽しんでくれる(と思い込んでいるだけの可能性が高い)。

きっと、そういう文章を書ける人というのは、能動的に生きていらっしゃるのだ。

ブロガーの中でも汁気の多い文章が書ける人というのは、それだけ人生に対して責任を持ち、己の時間を何につかうかを知り、情報をふるいにかけ、のんべんだらりとTwitterInstagramリア充を疎みもせずに、また意識高い系のアカウントに対して嫌がらせもせずに、今日まで生きてこられたのだ。生きてきた証が文章に現れているのだ。

 

と考えると、どうも、取り返しがつかないかもしれないぞ……という気がしてきて、人生の主導権を握りたいけれども、やっぱり意識が低いので、そうした自己啓発的な兆候も、自分でシャットダウンし、どうだまいったか!そんなものに頼らずとも、俺はへっちゃらなのだ!と強がってみる、一睡もできずじまいの、火曜日の朝です。

 

おはよう。

 

ザ・コピーライティング――心の琴線にふれる言葉の法則

ザ・コピーライティング――心の琴線にふれる言葉の法則