点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

「書けない」という話ならいくらでも書ける

継続的なブログの更新が止まっている状態から元に戻すとき、ブロガーはあらゆる「言い訳」をする。残念ながら、どんなにもっともらしい理由をつけたとしても、あらゆる言い訳は「書きたくなかった」という一つの真理に収斂していく。

このブログも、5月上旬に「ぼくのしょうらいのゆめは、ほんやさんになることです」という可愛らしい内容の記事を投稿してから1ヶ月弱の間、ノー更新であった。どうして更新が滞ったのか。書けなかった理由はこうだ。

  1. 「常になんかダルい」という体調不良
  2. 「俺の文章はクソだ」という精神不良
  3. 「書くこと無いな~」という怠け心

詳細に言い訳をすることはしない。つまりこれらの、「ブログを書く」ということよりも、優先して取り組みたい事象(体調を整える、精神の介護、怠け心が過ぎゆくのを待つ)があったから、ブログを書かなかったということだ。体調と精神を優先し、怠け心に素直になった。すると不思議と気が楽になって、なぜかこうしてブログを書いている。

〆切本

〆切本

 

 〆切本という本がある。夏目漱石江戸川乱歩村上春樹などなど……錚々たるメンバー90人が、出版社へ「〆切に遅れそうです」という内容を綴ったものをまとめた本だ。これを読むと、プロであっても、何か構造的な文章を書くということは、非常に大変であり疲れる作業であることが分かる。

そして〆切を伸ばしたりするお願いを、その文豪らしい筆致で言い訳し、口説こうとしているのは、読んでいて非常に楽しい。当の本人には申し訳ないが。実際に〆切に胃を痛ませている人に読んでほしい。解決策になるような、具体的なHow toは得られないが、「文豪でさえもこうだったのか」という視点は、セルフ・コンパッション(自分に対する自愛の念)を高める材料になる。

フィクション・ノンフィクションによって、想像(創造)のプロセスは違うとは思うけれど、どちらにせよ、出版されるような文章というのは、特殊な芸術技法を使用した詩歌でなければ、構造的な世界観を記述した文章であることは間違いない。

文章を読んで、頭の中に世界を作り上げていくというのは、読む文章が整合的であればあるほどやりやすい。世の中に受け入れられる文章というのは、整合性が一定基準を超えているものだ。読む側が、著者の構築する世界観をある程度頭の中で再構築する。その再構築がしやすければしやすいほど、読まれる文章となる。

整合性が一定水準を超え、さらに人々に「面白い」と思わせる文章を書くというのは、作家であっても、こんな本が登場するくらいに難しいことなのだ。

文章を書くということは、もともとクソ難しいという事実が頭から抜け落ち、俺はもっとうまい文章を書けるはずだという身の程知らずな姿勢が強いとき、僕は文章を書けなくなるのかもしれない。向上心というのは捨てるリスクが高いが、いたずらに燻ぶらせていても行動しない言い訳に使うことができる。僕はずっと言い訳に使ってきた。多分、これからも言い訳に使う。

だったら向上心なんぞ捨ててしまう。何の問題があるというのだ。所詮ブログは公開脱糞自慰ショーである。何度もこのブログで言及しているのに、当の本人が一番納得していなかったというのは皮肉だ。

さて、ここまで開き直ったので、これからこのブログの更新頻度も上がるだろう、というオチにしようと思ったのだけど、結局ブログよりも優先してやることが出現することの方が多い時期だ。引っ越しもしたしね。多分また、マチマチになる。

また書きたくなったら、クソみたいな文章であったとしても、書き上げようと思う。それくらいでいいよな。