点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

まあまあ論理的になるための「誤謬チェック」

「論理的である」ということを、僕のような論理的思考に欠ける人間は、いまいちピンと来ない。

帰納法演繹法、三段論法、ロジカルシンキング、トゥールミン・ロジック……論理的な考え方とはどういうことなのかをインターネットで調べると出現する数々の思考パターン。目についた情報を手に取り、とりあえずそれを真似しようにも、果たしてそれが正解であるのかということをチェックするには、他者からのツッコミ待ちを期待する以外に、手段があまり無い。

すこし話はそれるが、読みつがれている文章読本に、岩淵 悦太郎の『悪文』というのがある。マスメディアや広告などに綴られた「悪い文章」をレビューすることで、「やってはいけないこと」の確認作業をしてくれる名著だ。これを読めば、自分の書く文章を、少なくとも「悪くない文章」にすることができる……かもしれない。

 

この発想は使える。論理的思考に慣れていない我々感覚派の人間は、頑張って「論理的思考かくあるべし」という教えに従って考えても、あまりパッとした成果物を生み出せない。これは「うまい文章を書こうとすると、読みにくい文章になる」というアレと、構造的に似ている。

ならば、「論理的に誤りである」ケースを知ることで、とりあえず「まあまあ論理的である」という道を目指すルートが現実的な感じがする。

さて、「この発想は使える」と、まるで僕が思いついたような書きぶりだが、当然このようなアイディアは、先人がとっくのとうに思いついている。僕のような凡人が自分が考えたアイディアなんてのは、それよりも質の高い、ブラッシュアップされたものが存在するものだ。

bookofbadarguments.com

そのものズバリのものを見つけた。

この事典は論理的な推論を立てようとする上で陥りやすい誤りの例を、イラスト付きで紹介、解説してくれているものだ。しっかり大人向けに書かれている。巻末には用語辞典もあり、本文を読んでいて混乱しても、そちらを見れば解説を読み通せるように設計されている。

説明しなくていいことかもしれないが、誤謬(ごびゅう)というのは、論理の過程において誤っている部分があるため、それに基づいて行われた論証が妥当ではないことを指す。

この事典で紹介されているのは、「非形式的誤謬」がメインだ。この辞典によれば、一般的な誤謬は非形式的なものであるという。

非形式的誤謬とか言われると「うっ」となるが、巻末用語辞典から説明を引用してみよう。

その形式ではなく、その内容と文脈に起因する推論の誤り。(p.53)

非形式的誤謬の一例を挙げる。僕がSNSでよく見かけるな~と思ったのは、「お前だって論法」だ。

誰かの論証に反論するために、相手自身の過去のふるまいや言葉と矛盾していることを指摘するものである。(p.36)

誰かが何かしらの問題を論証したとする。その際、「お前は過去にこれこれこういった行動を取ったのだから、これを批判する資格は無い!偽善者だ!」のような主張はよく見かける。ひどいものだと、いかにその人物が偽善者であるかを展開する。

だがよく考えなくても分かることがある。

それは、この手の類の反論は、論証を提示した人間に対する攻撃であり、提示された論証への反論として、論理的な妥当性は無い。つまり話題反らしだ。論証そのものへの論理的な反論として、成り立たっているとは言えない。

別のものをもう一つ。「真のスコットランド人論法」などは、保守派の思想ツヨツヨなTwitterアカウントなどがよく使っているのを見かける。

あるグループについての一般的な主張をした人が、何らかの証拠をもって反論されたときに、この論法が登場する。反論された人は、立場を修正したり、証拠をめぐって争うのではなく、恣意的にそのグループのメンバーの規準を変えることで、反論から逃れるのだ。(P.28) 

日本人のAさんが、外国人の残酷な犯罪のニュースを見た時、「日本人ならこんなことしない」と主張したとする。しかしBさんが「日本人でも残酷な放火殺人事件を起こすじゃないか」と反論する。するとAさんは、「そいつは真の日本人じゃない」という……このようなものを、「真のスコットランド人論法」という。

「真の日本人」なるものがどのようなものなのかを提示していない曖昧性を使って、自分の主張を守ろうとする。論理的に妥当ではなかったと、お詫びと訂正をいれて自分の主張を棄却するのではなく、主張を押し通そうとする点もたちが悪い。

条件が提示されていない、あるいは一概に設定できないような「主語デカ論法」は、この誤謬を起こす危険性を孕んでいる。

これは僕も平気でやる。「保守派の思想ツヨツヨなTwitterアカウントなどがよく使っているのを見かける。」と書いたが、「でもこの人はそんなことしてないよ」と言われたら、「じゃあその人はそんなに思想ツヨツヨじゃないんだよ」と反論したくなる。

主語デカく一般的な特性について主張するときは、論理的妥当性を失うリスクを考えておきたい。

などなど、このように普段の会話やSNS上でのやりとりの中には、論理的ではない考え方にあふれている。慣れ親しんだ思考パターンの中には、非論理的な誤謬が紛れ込んでいる。

努めて論理的であろうとする場面においては、これらの誤謬を意識しつつ推論を立てることが、論理的思考が苦手な僕のような人間にとっては、良い近道になるかもしれない。

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