点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

自虐の作法

最近の記事を読み返すと、自分の不毛なる精神的な運動の気づきを、どういう目的で広めているか不明瞭な内容のものばかりである。そして更に気がついたことは、「おもしろトピックス」に昇華できていないことだ。これはまずい。単なる自虐に終わっている。これは、僕がかねてより温めていた、「自虐の作法」という哲学に反する。

「自虐には作法がある」

と気がついたのは、面白くもなんともない、「単なる自虐者」と、立て続けに遭遇したときだ。「単なる自虐者」に共通するのは、「他人からの慰めを期待している」という点である。これはいけない。もっといけないのは、自分の発言が他人からの慰めを期待しているということに無自覚である場合で、これは自虐者の中でもっともたちの悪い部類である。

「良き自虐者」とはいかなるものか。僕なりに結論づけたものがある。

  1. 自虐者たるもの、他人に気を使わせるべからず
  2. 自虐者たるもの、常に面白さを交えて発露すべし

「単なる自虐者」と「良き自虐者」の大きな違いは、他人に気を使わせているか否かである。南海キャンディーズ山里亮太氏の自虐を見よ。彼の自虐は「そんなことないよ」と口にするのも失礼かもしれないというような、見事な清々しさで、ラジオを聴く限りにおいては、他の自虐家の追随を許さぬ勢いである。

彼の基本スタンスは、恨み、嫉み、妬みなどを、彼自身の「冴えない」というイメージとうまくマッチさせながら放つ「毒」である。ここに他人に気を使わせないヒントがある。美味い自虐には毒があるのだ。フォローのしようがない「開き直り」は、みっともなさを含めて芸である。単なる自虐者は、自分のことを虐げるような発言をしていても、その実自分が大事である。恨み節を効かせることで、「そんなこと無い」を言えなくさせるのだ。これが作法1にかかるところである。

作法1を守ったとしても、作法2をおろそかにすると、「普通に性格の悪いヤツ」になる可能性が高い。毒を希釈する、あるいは後始末をするという一手間が加わることで、それが「ネタ」となる。これは単なる恨み節、悪口ではないのだ。良い悪口が存在するかどうかはわからないが、面白い悪口なら存在する。

比喩、言い回し、イントネーション、表情、ジェスチャーなどを駆使して、コンテキストの毒々しさをまろやかにする術がある。これを心得ることで、より毒の中の旨味が引き立つ。気を使わせず、言い過ぎない。ここからは侘び寂びの世界である。本来ならば気落ちするような内容の言葉に、豊かさをもたせる。

自虐とは、奥が深いのだ。

ところで、偉そうにこんなことを書いているが、さあいざ自虐するぞ!と意気込んでも、なかなか思いつかないもんである。ブログで自虐をするというのは、非常に難しいし、面倒くさい。全部思ったことを文章にしないといけないからだ。

くそ、なんでこんな記事を書こうとしたのか。こんなことを書いているなら、何か1つでもネタを考えておけばよいのに、見切り発車でブログを書き始めるから中途半端なものばかりがブログ上を埋め尽くすのである。あーあちくしょう。

いや、まて。世の中のブログ記事というのは、全てが中途半端ではないか。完成されたブログ記事なんてあるものか。それはもはや素人の仕業ではなく、作家による作品である。本として売れるようなブログを書ける人、それは既に作家として食っていけるほどの、教養と修辞法を身に着けた者に違いないのだ。そういうものと僕は違う。僕は単なる書店員、しかも人よりちょっと後ろ向きなだけである。比べられても困るのだ。期待するな!あっちいけ!

そもそも作法だなんて偉そうなことを言うやつにはろくなものはいない。

完全なる作法というものは、そもそも世の中に存在しないのだ。武道、書道、茶道、学業、ビジネスなどの、特定の場所においてのみ、作法は存在する。一歩その世界から踏み外せば、あらゆる作法は無意味だ。柔道の試合中に名刺を渡しても投げられる。忙しないスケジュールのビジネスマンの商談時に、茶筅で抹茶を点てるのは、多くの場合NGである。日常生活において、いかに作法が無用の長物であるかということを肝に銘じ、他人の作った評価軸で生きることをやめよ。

作法なんてくだらねぇんだよ!俺はパンクに生きるぜ。原発反対。