点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

社会は残酷と悟った人の本──ふろむだ『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』

ハロー効果、利用可能性ヒューリスティック、後知恵バイアス、認知的不協和、一貫性の罠……などなど我々はどうやら、色眼鏡をかけて現実を認識しているらしいことが、認知科学応用心理学社会心理学などの成果によって分かっている。この手の本を読むとき、多くの場合は「自身の抱えるバイアス」について意識を向けさせ、現実を正しく認識するよう努めるべしと喝破する。

本書はそれらを利用して、自分の評価の底上げをせよと言う。そんな!反道徳的な!と叫ぶのはよろしいが、しかし人間はどうにも心理バイアスから逃れられない生物であって、そういう生き物がうじゃうじゃいる現実社会においては、許容範囲のなかで多少の錯覚を与えつつ成果をアピールしていく生き方を選択しなければ、生きにくいのである。

この本の自己啓発的なところは実際に買ったり借りたりして読んでほしいが、僕が面白いと思ったのは、著者の社会の捉え方だ。誠実な生き方って理想だけれど、そうは言っても社会は残酷なのよね、と悟っている感が半端じゃない。

 利害と感情と欺瞞は、錯覚を育て、守り、覆い隠し、日常の薄皮一枚下で、大繁殖させるのだ。

 人々が、思考の錯覚によって、誤った判断をしているというエビデンスが山のようにあるのに、あいかわらず思考の錯覚が世に蔓延っているのは、これが大きな原因の1つなのだ。(P.304~P.305)

錯覚というのは単なる間違いであると著者は言う。イケメンが言っていることは説得力があると思いがちなのも、すぐに思い浮かびやすい情報だけを使って物事を判断するのも、物事が起こってからさも自分は予測できていたと思うのも、運を実力と錯覚するのも、間違いである。これ自体は仕方がない。人間の習性だ。

何が問題かというと「欺瞞」だ。自分の利益のために事実とは異なることを示し、ごまかすことを言う。例をあげよう。

人間はどうしても、美醜で他人の評価を変えたり選り分ける。これは数多くの心理実験で示されている。自分が人間である以上、どんなに気をつけていても、美醜によって評価を変えている確率は高い。

イケメンが間違えたことを言ってブサイクが正しいことを言った場合、どっちが説得力があると感じる?そういうことだよ……ちくしょうめ。

しかし、自分が「人を外見で判断する不公平な人間である」と周囲に思われると損だ。そこで多くの人は「自分は外見で人を選り好みしないし、不当な評価もしない」と主張したり、考えたりする。こうした利害が絡んだ自己防衛的な態度こそが欺瞞である。

こうした欺瞞が至るところに存在し、錯覚によって行われる事実誤認が、まかり通っているのが現在の社会である……という、なかなかなディストピアで残酷な思想なのだが、極めてリアリティがあると思う。ポリティカル・コレクトネスが覇権を握っている間は、「人を見た目で判断するのは仕方ないよ、にんげんだもの」とは言えない雰囲気がある。欺瞞的である。

しかし人間は「そういう習性が我々にあるとしても、見た目で安易に評価を変化させてはいけないよね」という反省ができる。そこまで来て本当の意味でのポリコレであるはずだ。そうした反省を怠ったがゆえに、その反動として、過激なナショナリズムを標榜するリーダー達が世界で噴出したのかもしれない。欺瞞疲れだ。

話がそれた。というわけで人間は錯覚からは逃れられない。

バイアスによる判断は、優秀な人間だろうがそうでなかろうが、等しく行われている。よほど気を付けなければ、人間はすぐに、手っ取り早く、利用可能なもので他者や物事を評価しようとする。人間がそうした錯覚から目覚めない限り、正々堂々と実力だけで勝負しようとすると、相手にしてもらえないことすらあるのだ。

なれば、錯覚を堂々と利用させてもらおうではないか。というより、端っからそういうシステムで動いているのだ。錯覚的な資産を使って、世の中を生き抜け!……という悪魔の囁きに近い本書の主張に従うかは、あなた次第……。