点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

音楽体験のチェリーピッキング

自分の音楽体験の根源は、自分だけのものである。自由にもっておいていい。

それはいかなる妨害をシャットアウトすることが許されるだろう。評論の世界で説得力を持つ"識者の声"や、自分よりもファン歴の長い人たちからの”アドバイス”はもちろん、作者からの”お言葉”でさえも、「うるせえ知らねえ」と一蹴できる。

逆も言える。古参ファンのアドバイス、識者の声、作者のお言葉を、自分の感性や解釈よりも優先的に音楽体験に付け加えることで、それが豊かになるかもしれない。どちらの立場も尊重される。個人が手綱を話さなければ、その人の音楽体験は、その人が完全にコントロールできる。

 

ここまでを前提として、ここから最近個人的に思っていること。

アーティスト本人による作品を経過しない生の声が、SNSの普及によって届きやすくなった。そのアーティストが変な状態になったり、変な発言をした折に、彼らのSNSのフォローを外すなり、ブロックするなりして、ある種の思想信条上の理由、生理的嫌悪などによる決別と共に、彼らが生み出した音楽とも決別する人を、ちらほら見かけるようになった。

 

それも、もちろん尊重されるべき立場だ。アーティストの言動と作品は不可分。それはたぶん、かなりそうだ。

作者によっては、自分の思想に共感が不可能になった人は、リスナーでいてほしくないと思う人もいるだろうから、ある意味では誠実な振る舞いだと思う。

ただ僕のように、音楽と作者を切り離しがちな人間としては、そうした態度は非常に勿体なく思えてしまう。完全に余計なお世話だが。

最初に断っておくと、アーティストを許容できなくなった瞬間、今まで聞いてきた音楽のメッキが剥がれる感覚から、その音楽を聞けなくなってしまうという事象が発生するのは仕方がないことだと思う。自分が「こいつ無理だな」と思った人間のアウトプットを、それでも食せ!というのは酷だ。けしからんというつもりはない。

だが、別ルートがあると思う。

 

論証の禁じ手に、チェリーピッキングというものがある。ある命題を論証する際、自らの論証に有利な事実のみを並べる詭弁術のことだ。サクランボの熟した実のみを選別するという語源から、美味しいどこ取り、つまみ食いの意でも使用される。

学問の世界では、分野における共通の認識のアップデートを目的とするので、1人の学者が自分に都合の良い論証や研究成果を発表したとしても、発展に寄与しないどころか、なにかの手違いで誤った論証をベースに研究が進められば発展は阻害される。ゆえに忌避される。

だが、個人の音楽体験はどうか。公共性はほぼ無い。公共性がある場所に自分の音楽体験を放出する場合はその限りではないが、自分の体験に留めておく限り、どのような体験として記憶しても、誰から何も言われない。

つまりは、美味しいどこ取り、チェリーピッキングし放題。場合によっては味付けさえ可能だ。わざわざ悪い部分を食さずとも、迷惑を被る人間はいない。自分勝手に音楽を聴いても、何も悪くない。

 

ただ、こうした態度はもしかしたら、幼稚で、自分勝手で、音楽という芸術の楽しみ方としてふさわしくないという意見があるかもしれない。それは否定しきれない。

まともな大人なら、ご忠告に対して「うるせえ知らねえ俺は俺の道を往く」と面と向かって言わないだろうし。ただ、「幼稚な楽しみ方」は、「間違った楽しみ方」ではないはずだ。

そもそも、正しい音楽の楽しみ方というのは存在するだろうか。もしあるのだとしたら、それは「自分にとってより良い音楽体験の追求」くらいのものであって、明文化され得るものではないだろう。条件をあれこれ指定して、これですと可視化できるものでは無いと思う。

 

音楽の、というよりあらゆる芸術作品に対する評論は、「私の楽しみ方」「私の好きなところ」「私の嫌いなところ」を根拠を付けて発表したもので、「このように芸術を理解せよ」というものではない。むしろ、そうした態度の評論があるならば、読んでいていつまらないものじゃないかな。

ファン同士の会話でも同じことが言える。あるファンが発する音楽体験はその人の解釈や理解のひとつであって、その音楽を捉えるための正解ではない。

評論やファンの発言は、相手にしたいものだけを相手にすればいい。と、長々話したが、至極当然、当たり前のことすぎて、ちょっと恥ずかしい。

 

ここまでは普通に音楽が好きな人であれば(別に好きじゃなくてもそうか?)自然にやっていることだろうけれど、アーティストが何かやらかした場合というケースになると、少し様子が違ってくる。

やはり作り手本人の行動や言葉は重く、作品が持つ意味のベースに直接関わってくることになるからだと思う。

 

純愛を表現しておいて不倫三昧、誠実な応援歌を歌っておいて裏ではDV三昧といった不誠実なものから、社会を激震させるイベントに寄せるコメントがとんでもないものであったものなど、例をあげれば枚挙にいとまがない。あるいは個人的にやらかしていると判断するというレベルのものまで含めればキリが無い。

なので先程はざっくりと、思想信条上の理由、生理的嫌悪などの理由と書いた。アーティストのやらかしによってこれらが起こり、自分が感動したものが、チンケなものに思えてしまう……自分の中から、どんどん作品が死んでいく……

 

しかしここでも、チェリーピッキングをしてしまえ!と言いたい。

アーティストが居なければ音楽体験はできない。それは重々承知。しかし、作者の手を離れたあとの自分の音楽体験は誰にも邪魔させない。それはアーティスト本人にだって……!というルートを採用すれば、そりゃ多少、作品が色褪せることはあるだろうが、一気に朽ち果てて死にはしない。まだ美味しいところが残っているはずだ。

ちょっと傷んでいても、自分なりの再解釈という調味料で、どこの誰も味わっていない音楽体験だって可能だ。それはアーティストのやらかしさえ材料にしてしまえる。より良い音楽体験の追求のためならば、清濁併せ呑んでしまう。そうなればチェリーピッキングの達人、解釈の魔物、免許皆伝じゃ。

 

それが難しいならば、自分の音楽体験において、都合の悪い部分はばっさりと切り捨ててしまおう。で、それを誰にも言わず、大事にしまっておけばいい。

いや、言いたければ言っても良い。でも「そんなこと作者は言ってないよ」と反論が来ることは覚悟しなければならない。厄介な原理主義者に絡まれるかもしれない。

「あんなことしたやつの音楽なんて聞いているの?キミもあいつと同じ感性なの?」と見下される可能性だってある。それが嫌なら黙ってれば良いのだし、それでも言いたいなら言えばいい。書きたいなら書けばいい。あなたがタフなら。

 

僕は、今でも僕が繰り返し聞いている音楽と出会ったときの感動は、誰にも邪魔されたくない。否定的な意見がそこに降り注ごうとも、否定的な意見があるなあという、その事実は直視しつつ、それでも自分の「いや~~これいい曲だわ~~何度聞いても最高~~~」という感性を信じたい。

そのためならば、どんなフィルターを使ってでも、どんなバイアスが発生しても良いとさえ思う。アーティスト本人のやらかしに阿鼻叫喚する人々を尻目に、自分しか知らない秘密の楽しみ方でしゃぶり尽くす。

そんなくらいの気兼ねで、これからもアレなアーティストを楽しんでいく。

 

おしまい。