点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

疲労の受容

生きているだけで疲れる。

これはネガティブでもなんでもない。当たり前で、仕方のないことだ。生きているだけで疲労が回復する人間はいない。いついかなるときも、我々はエネルギーを消耗するからだ。たとえ眠っていてもカロリーを消耗する。知的生命体として生まれ落ちたものは、疲労と一生友達だ。だから、「疲れた」という人を責めてはいけない。「腹減った」と同じくらい当たり前のことだ。「疲れた」を鬱陶しく思うのは、披露宣言をする者が、時間、場所、状況を間違えているからで、披露宣言そのものに罪はない。

人間の当たり前である疲労から目をそらすことは、自然の摂理に反する破滅思想である。休息、特に睡眠を軽視することになりかねない。「短時間睡眠法」などの睡眠に関する夢物語が注目される隙を社会に作る。海外の有名大学の名前をあつらった疲労回復本にすがる人が出てくる。

ここには巧妙なトラップがある。疲労を回復するテクニックを実施するために、意思の力が消耗されるのだ。疲労とはあらゆる消耗の結果である。しかし、消耗をなるべくしないようにしようという配慮によって、思考の一部を消耗しているようでは、余計に疲れる。

また、慣れ親しんだ環境や習慣を変えることには、かなりのストレスを覚悟であたらねばならない。実践することで健康状態が回復することもあるだろうが、いずれ年を取ることで、その回復量が落ちる。つまりせっかく効率的な疲労回復法を頑張っても、いずれは疲れが取れなくなる時が来る。というより、刻一刻と疲れは取れなくなっていく。その事を憂いたり、腹を立てても仕方がない。そういうもんなのに、それに抗うかのようにして、アンチエイジングに取り組むことに何の意味があるのか。

機種変更や電池交換もしていない、購入から4、5年経過したiPhoneリチウムイオンバッテリーに腹を立てるか。立てても仕方がない。そういうものだ。iPhoneと人間の違いは、人間は自分の体を機種変更できず、エネルギーを充電できる量は下り坂をたどり続けるという点だ。誰のせいでもないので、腹の立てようが無い。

疲労を受け入れることで、様々なことを諦めることができる。いくら働いても疲れない身体、それを作るための理想的で効率的な食事、それを維持するための費用など、健康市場がしきりに訴える「良きもの」は、もはや人生において必要なくなる。どんなに頑張ったって疲れるのだもの。

疲れないために頑張るから余計に疲れる。疲れることをやめようとすることでも疲れる。飯を食ってても疲れる。気心しれた間柄の人間と一緒にいても、リラクゼーションマッサージや整体に行っても、旅行に行っても、ボーッとしてても疲れるものは疲れる。

疲れることをやめるには、死ぬしかない。そう考えると、死ぬことはひどく贅沢なものであるかのようだ。しかし死は、生きている僕らの認識の外にあるものであるから、その贅沢を感じる事ができないから、求めても意味がない。これが自死を選択しない理由だ。

疲労は悪いことばかりではない。僕らは疲労を対価に、息を吸い、飯を喰らい、排泄をし、仕事をし、対価を得て、消費して、人生にあるかどうかも分からぬ意義をそれぞれ見出し、味わっている。死なない理由は、疲れる代わりに得られる、あらゆるものに求めることができる。

だからといって、「喜んで疲れるべきである」とは言わない。それは詭弁であり、これもまた破滅思想である。無理に疲れる必要は、これまた、無い。

疲れるべくして疲れよ。自然と流れるように疲れよ。そして眠りという一時的な死によって、あらゆる消耗を意識の外に追い出す贅沢を味わいながら、残された体力、つまり寿命を消耗して疲労しながら、得難いものを得てゆくことしか僕らにはできない。

あー疲れた。3億円落ちてこないかな。そしたら疲れもぶっ飛ぶのに。

しかし3億円あったら疲れもぶっ飛ぶのは、気のせいなんである。どんなに充実した生活をしている人でも、必ずどこかで疲労が顔を出す。