点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

心をハリネズミにする方法──香西秀信『レトリックと詭弁』

僕は口喧嘩が弱かった。いや、いまでも弱い。喧嘩の次に、議論に弱い。読書をしているのだからディベートに強いんだろうという、良くない先入観で立ち向かわれることが度々遭ったが、コテンパンにやられてしまう。というより、丸め込まれてしまう。

なぜ丸め込まれていることが分かるのかと言えば、喧嘩や議論の終わった後に、「いや、よくよく考えてみるとこういう糸口で不利な状況を脱出できたぞ」とか、「あの質問自体におかしいところがあるぞ」いう反省ができるからだ。

僕が負けた議論は、殆どそういう類のもので、前提知識が間違っていたり、出すデータを間違えたりした数戦以外は、相手の仕掛けるテクニックが意地悪で、見事に相手の術中にハマってしまったパターンが多いことが分かった。

論理的に考えてみると誤りではあるが、他者の説得の為や、誤りであることを信じ込ませる為に用いられるテクニックを、詭弁という。

僕自身がやられた記憶に残るボロ負け喧嘩や議論の多くは、詭弁が使われていたに違いない。口喧嘩が強い人間の特徴は、詭弁上手である、という仮説を立てた僕は、詭弁に関する書籍を数冊読んでみることにした。その中で出会ったのが、香西秀信『レトリックと詭弁』である。こっちのほうが、少しわかりやすく書かれていると思う。

レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)

 われわれは、言葉によって、自分の精神を、心を守らなくてはなりません。無神経な人間の言葉の暴力に対して、ハリネズミのように武装しましょう。うっかり触ったときには、針で刺す程度の痛みを与え、滅多なことは言わないように思い知らせてやるのです。(まえがき P.9)

頼もしいのだか情けないのだか分からぬ心がけだが、無闇矢鱈と詭弁を弄する人間を増やさないためには、防衛術としての詭弁の心得を紹介するという態度にならざるをえないのだろう。

野崎昭弘『詭弁論理学』 改版 (中公新書)と比べるとライトな筆致で書かれている。取り上げられている議論は実際の古典の名作から引用したシーンが殆どで、ついでにそこら辺の知識も身につけることができるお得本である。

『レトリックと詭弁』を読むに当たって重要なのは、「議論を制するのは「問い」の技術」というド頭に登場する言葉だ。

シュターデルヴィーザーによれば、問いは「議論(対話)を、ある方向に向け」、「相手を、こちらが狙いとするところにより近づけることができる」。

 確かに、問いは議論に置いて最も強力な武器の1つです。それはただ、こちらが知らないことを相手に尋ねるためだけに発せられるのではありません。むしろこちらが十分知り抜いているからこそ問われるのだと言えましょう。

 本書では、全体の半分以上を、この問いの問題に当てることになります。「問いは議論を制す」という言葉は単なる洒落ではなく、文字通りの真実だからです

議論に負ける時や丸め込まれてしまったというときのことを思い出してほしい。相手から何らかの問いを受け、それに答えることができなかったというパターンで負けてしまうことが多くはないか?

僕がブラック企業に勤めていた時、社長はことあるごとに「まだ会社を潰そうとしているの?」という問いによってプレッシャーをかけていた。「はい」と答えたら殺されるので「いいえ」と答えなければならないが、同時に「以前会社を潰そうとしていた」ことに同意することになってしまい、「はい」とも「いいえ」とも言えない状況におかれる。

 

まさにこのような例が本書でも取り上げられている。伝統的虚偽論(そんなものがあるなんて!)では、これを「多問の虚偽」あるいは「複問の虚偽」と呼ばれる。

「君は、もう奥さんを殴ってはいないのか?」

(中略)

 右の例文は、形式上、「はい」か「いいえ」という答えを要求します。もし、「はい」と答えたら、かつては殴っていたが、今はやめたということになる。「いいえ」と答えたら、今でも殴っていることになる。つまり、どちらで答えても、自分がWife-beaterであると認めたことになってしまうのです。これは、右の問いが、こちらがかつて妻を殴っていたということを前提にして組み立てられているためです。

さて、このような悪質な問いに対しては、一体どのような抜け道があるのか。本書ではこの他にも様々な種類の詭弁とその脱出方法が書かれている。興味がある人はぜひとも読んでほしい一冊だ。