受け止められないポジティブな評価
ネガティブ人間からみた「ポジティブ」
高校生の頃まで、極端なネガティブ人間として過ごしてきた。
自分に対するポジティブな評価はウソであると思ったし、ネガティブな評価は自分が一番知っていることを、わざわざ人に言われているということで辛かった。まさしくポジティブという文字が辞書から破り取られてしまった人格である。
多くの人間は「お世辞」を使う。特に、初対面の人間に対しては、ある程度下調べをして、共感したフリや驚いたフリをすることで、相手にとって自分がいかに信頼に足りうる人物であるのかという印象を刷り込む。すると相手に対して、自分の思惑を通しやすくなる。これがコミュニケーション能力である。
人間に対して本当に凄いと思うのは、もはやフィクションの中の人物か、フィクションスレスレの偉人か、それと同等の偉業(これも非常に主観的判断による)を成し遂げた現代人か、アクロバットを見せるサーカス集団か、人並みはずれた芸当をもつ芸術家たちのみであって、凡百な人間がわんさかいる我々の人達同士でかわされる評価に、本心で取り交わされるポジティブな評価があるのかは疑問だ。
本当は何億もの精子たちとの激戦を繰り広げ、無事に母体から生まれた段階でものすごいことであるのに。
ポジティブな評価への疑問
自分たちの友人関係をもう一回振り返って欲しい。果たしてお互いのどこに惹かれ合ったのか。相手のどういったところを見た上で関係を成り立たせるのか。相手はなぜ自分と関係を持ち続けてくれているのか。
長年連れ添った相手ほど、理解ができないはずである。大方は、その友人と同じ場所に長くいただけである。さらに言えば、仮想の敵や味方を作り上げ、その愚痴や称賛を言い合うことによってできた関係にすぎない。それが今のあなたの人間関係である。そんなもんだ。いないよりはマシだ。
このテーマに関してのみ、異論も反論も僕に対するヘイトスピーチも認める所存である。
ひとつ自分でも反論するとすれば、どちらにせよ「仲良くする」ということがなければ、人間の社会というものは発展しなかったかもしれない。見えないものに対する畏怖や信仰は、本心だろうがウソだろうが人間を統一するのに一役かった。この統一は強制的であり、本心は除外される。また、ギブ・アンド・テイク、つまり返報性の原理は、これも心からのお返しであろうがそうでなかろうが関係ない。貰ったらお返しをするのだ。こうした仕組みがあったからこそ、このような文明社会が発展していっただろうか。
そういったものがあってこそ、人間が今ままで、一定の生命活動を行えてきたのだと思う。だからそれが偽りから出てきたものであったとしても、必要だったのだ。
これに対する解決策は、納得がいかない場合は「諦める」のみである。
過度で失礼な謙遜を克服する対処法
僕は高校生からネガティブであったと書いた。それは自分に対するポジティブな評価がくだされた時、どうしてもその責任を負いたくなかったからだ。「いやいや、そんな、それほどでも」とか「自分のおかげじゃなくて、○○さんのおかげです」ということの方が心地よかったのである。先輩がこんなことを言った。
「謙遜もいいけど、あまりひどいと逆に失礼だぞ」
この言葉が呪いとなって僕につきまとっている。僕はポジティブな評価を否定したほうが心地良良い。無関係者になれるからだ
褒められたら謙遜せずにありがとうと言え。これはあらゆる処世術の本にも載っているし、胡散臭い心理学的統計が、そういう切り返しをすることによって抑うつ状態が低下するというデータを示すところでもあるらしいのだ。ほんとかよ。儒教の国家である韓国やら中国やらでも、謙遜は何回までとかいうマナーがあるらしい。ほんとかよ。
こういう知識を持っていたとしても、僕には負担だった。すごいじゃん、やるじゃん、おめでとう、おもしろい、すごい……全部心の負担だ。もちろん自分に対して使っても、「とは言っても全然すごくない、やっていない、めでたくない、おもしろくもない、すごくない……なぜなら」という反論が「自動的」に出てきてしまう。
この5年ほど、謙遜が失礼であると知った僕は、「ありがとうございます」ということにした。なぜなら、
「どうしてもいやなら、ありがとうございますとか言っておけ」
というお言葉を、これまた同期に言われたからだ。そうすると、お礼をいった方が気持ちよくなるので、都合が良いからであるということだ。
その先輩には悪いが、サンプル数1だとちょっと不安だ。なので多くの人に同様の相談をした。すると、大概の人からは、感謝の念を言っておけというアドバイスを貰った。なので、ありがとうと言うようにしている。
先程の返報性である。僕は社会のルールを受け入れた。自分の本心を殺して、諦めたのである。
僕も、同じようなことを他人から聞かされた時には、「過度な謙遜は失礼、ありがとうとか言っておけ」と同じことを言ってしまった。それ以外の解決方法が今になっても見つからない。今は凄い!と評価をしてしまった人から「ありがとう」と言われると、無理をしてはいないか、とふと考えてしまう。人の心を決めつけるのは失礼だというので、言わないようにしているが、どこかで思ってしまう。
ヒエラルキー的思考からの脱出
「へへん、どうだ!凄いだろう!」という態度を日本でとるべきではない。また、心のそこから思うものでもない。上には上がいる。喜び損である。可視的な自尊心を持つ人間を見ると、そのように思ってしまう。それは無意識のうちに、ヒエラルキー的な思考によって、自分の社会的立場、肯定巻、効力感を図ってしまっているからかもしれない。
ヒエラルキー的な思考をしてしまうことは危ない。そんなことは判断能力がにぶった僕でも分かる。人の能力の優劣によって人間を差別化するからだ。あらゆる紛争を生む原因である。
ここからどうしても抜け出せない場合は、別の評価軸を持ち出せば良い。すると人はだれでも唯一無二になれる。
僕に当てはめてみよう。立川に住んでおり、うつ病で、ろくに仕事もできないが、本を読むペースは月30~50冊である。この条件の強弱でヒエラルキーがあったとして、頂点に立つのは僕だ。ただ、こんなことをしても、全く嬉しくない。それは、社会的ないきものである人間は、そんなことをしても何も意味がないということを、無意識のうちに理解しているからである。
そもそも人と比較することで、せっかく上位にランクインしたとしても、その発想をしてしまったがために、自分がいかに小さなことで自尊心を保っている人間であるかというものを思い知らさ、逆効果だ。
結局、あるがままに生き、自分の存在を相対化してくるような言葉、文脈などからは逃れて生活するしかないのか。そうなると、もはや山ごもりしか無くなるだろう。ネットの無い環境で、他人と関わることを必要最低限としつつ、自給自足をしながら、人知れず本を読むだけの生活だ。
悪くないかもしれない。都会の喧騒から離れ、ポジティブな評価からも、ネガティブな評価からも、開放されるかもしれない。だがそんなことができるほど決断力があるわけでも、お金があるわけでもないのだ。ついでに言えば、田舎に行けば行くほど、村の構成員の帰属意識は高いと聞く。偏見かもしれないが、ふらりと都会から引っ越してきた人物に心をひらいてくれる人間っているのか。
頭が働かない状態で過ごすというのは、こういうことをぐるぐるベッドの上で考えることである。抜け出したい。しかしもがけばもがくほど、底なし沼に引きずり下ろされる。これと同じようなもので、ハリー・ポッターには抵抗すればするほど、そのものを縛り付ける「悪魔の罠」という物がある。
賢者の石は未だ見つからない。