点の記録

点を線で結べない男の雑記帳

読書と不安

ちくま新書の『世界哲学史』シリーズを読んでいて、少し困ったことが起きている。このシリーズだけではなく、読書全般に言えることではあるのだけれど、読み勧めていくと興味のあることやより深く理解したい事が爆発的に増えてしまい、ちょっとしたパニックに陥る。

この原因は、いま自分の興味関心に従って、優先順位を付けることができていないことにあると思われる。漫然とした目的意識で本を読んでいると、あれもこれも読んでおきたい……という節操のない状態になってしまう。

また、僕自身のざっくりとした理解への不安がつのる。『世界哲学史』は網羅的な哲学史の解説書シリーズではない。扱う章ごとの時代や場所で繰り広げられた哲学の歴史とロジックの概略、多文化への影響などを解説してくれる書籍なんだけど、この水準の知識を仕入れることは、本当に良うござんすか?という疑念に駆られる。まだ早かったのではないかと。

西欧中心主義の哲学史ではなく、中国や日本を含むアジア、イスラーム文化圏などを含みつつ、横断的な知の歴史や連結を試みるという、前人未到のコンセプトを取り扱うシリーズ故に、僕の目的としてきた「各時代に発生した思想哲学の通説理解」というものを叶えてくれているのか、読み始めてからかなり不安になってきている。書いてある内容は未知の部分が多く、面白いことの連続故に、力不足を痛感しながらも、もっと知りたいと思う心も増すばかりだ。

おそらく、こうした不安はおそらく一生続く。人間が何かの情報をある程度理解するには、ざっくりとした大枠を掴んだ後に、詳細な具体的事象を、演繹的に掴んでいく方がよろしいらしい。いくらここで不安を抱えても、「ざっくり」→「具体的に」を繰り返すしかない。この「ざっくり期間」には不安は付きものであり、むしろその不安が具体的事象を知るためのエネルギーとなる、という見方もできる。

こうした一時的なパニックと不安を鎮める方法は、「優先的に理解したい情報の選定」と「妥協点」を決めるという2点が挙げられるだろう。一言でまとめると、「今は、とりあえずここまで理解できれば良いというラインを決めてしまう」ということだ。ただ経験上、こうしたある程度のシステム化は、知的怠慢に繋がる恐れがある。「ここまでできたし、この先はいいや」という妥協点が、そのまま着地点となってしまうパターンだ。これを解決するには、モチベーションの消失をしない程度に、目標到達ラインの更新が必要となる。しかし、このラインの更新は永遠に続く。

学問を修めるという才能は、この無限とも思えるラインの更新を、最新の学説を理解できたり、書籍に当たらずとも、ある知識を思考するときに援用できたりするといったにレベルにまで絶えず行える人にしかできないのだなぁと感じる。そのラインは個人的な問題として考えるのであれば、マイペースにやっていって良いのだけれど、将来に不安のある問題を抱える僕自身には、「こんなんじゃだめだ!」的な強迫観念がつきまとう。

そのたびにお世話になるのが私淑という精神安定法だ。僕の場合その矛先は、夏目漱石先生が言われた、「牛のように生きる」ということである。将来に対する不安や課題を一気呵成に打破する、馬のような人間にどうしてもなろうとしてしまっていたが、ここらでクールダウンをしたほうが良さそうだ。

知識を掘るべき箇所の選定、優先順位をつけ、妥協点を見極める……そういったものは、現段階でハッキリしないのであれば、それを見つけるべく、じっくりと焦らず本を読んでいく。

僕のような凡人には、結局これしかできないようで。とにかく一歩ずつ、ひとつずつ、やりたいことをしていくことにする。牛のように、一歩ずつ。